瑞希を救出した廃倉庫での一件から三日が過ぎていた。雨宮蒼は警視庁の会議室で、田中刑事と向かい合って座っている。蛍光灯の白い光が、二人の間に横たわる重い空気を照らし出していた。

「雨宮、お前に話しておかなければならないことがある」

 田中の声は普段より低く、その表情には蒼が今まで見たことのない深い疲労の色が浮かんでいた。五十を過ぎた刑事の顔に刻まれた皺が、今日はひときわ深く見える。

「何でしょうか、田中さん」

 蒼は背筋を正した。田中の様子から、これが重要な話であることは容易に察せられた。記憶探偵としての直感が、何か大きな真実が明かされようとしていることを告げている。

 田中は机の上に置いた手を握りしめ、しばらく沈黙した。窓の外から聞こえる都市の喧騒が、会議室の静寂を際立たせている。

「実は俺が、お前に協力を申し出た理由は……」田中は一度言葉を切り、深く息を吸った。「個人的なものなんだ」

 蒼は黙って田中の言葉を待った。記憶探偵として多くの人の心の奥底を覗いてきた彼は、人が真実を語る時の独特な緊張感を感じ取っていた。

「俺には息子がいる。大樹といって、今年で二十五になる」田中の声が微かに震えた。「三年前まで、優秀な研究者だった。記憶技術の分野でな」

 蒼の胸に嫌な予感が走った。記憶技術と田中の息子。その組み合わせが意味することを、彼は既に察し始めていた。

「大樹は記憶可視化技術の応用研究に携わっていた。お前と同じように、他人の記憶に触れることができる能力を持っていたんだ」田中は拳を握りしめた。「だが、ある日を境に全てが変わった」

 田中は立ち上がり、窓の方へ歩いた。夕日が彼の背中を照らし、長い影を会議室の床に落としている。

「大樹は記憶操作技術の危険性を訴える研究論文を発表しようとしていた。だが、それを阻止しようとする勢力があった」田中の声に怒りが込められた。「黒木竜也とその組織だ」

 蒼の体が強張った。またしても黒木の名前が出てきた。彼らが手を伸ばしていない場所はないのか。

「息子は脅迫を受けた。論文の発表を取りやめろ、研究から手を引けと」田中は振り返り、蒼を見つめた。「だが大樹は屈しなかった。正義感の強い奴だったからな」

 田中の目に涙が浮かんでいることに、蒼は気づいた。この堅物の刑事が、人前で涙を見せるほどの出来事。それがどれほどの痛みを伴うものなのか、想像するだけで胸が苦しくなった。

「ある夜、大樹が意識不明で発見された。病院に運ばれて、一命は取り留めたが……」田中の声が詰まった。「記憶を、全て失っていた」

 蒼は息を呑んだ。記憶の完全消去。それは記憶操作技術の最も残酷な使用法の一つだった。

「医師の診断では、極めて高度な記憶操作技術によって、人格形成に関わる重要な記憶が根こそぎ削除されたということだった」田中は再び席に座った。「息子は……俺のことも、自分の名前も、何もかも忘れてしまった」

 会議室に重い沈黙が流れた。蒼は田中の痛みを、まるで自分のことのように感じていた。記憶を失うということの恐ろしさを、彼は誰よりもよく知っている。

「今の息子は、施設で新しい人格として生きている。俺を見ても、全くの他人だと思っている」田中の声は震えていた。「あの優秀で正義感溢れる息子は、もう二度と戻ってこない」

 蒼は静かに口を開いた。

「だから、僕に協力してくれているのですね」

「ああ」田中は頷いた。「お前を見ていると、息子を思い出すんだ。記憶を失いながらも、正義のために戦おうとする姿が重なって見える」

 蒼は胸の奥で何かが熱くなるのを感じた。田中刑事の協力には、そんな深い理由があったのか。

「大樹の研究資料は、事件の後に全て消失した。だが、俺は諦めない」田中の目に決意の光が宿った。「息子の無念を晴らし、同じような被害者を一人でも減らすために、黒木とその組織を必ず潰す」

 蒼は立ち上がり、田中の前に歩み寄った。

「田中さん、僕も同じ気持ちです。記憶を弄ばれ、人生を奪われた者として、絶対に許せません」

 二人は互いを見つめ合った。そこには、共通の痛みと怒り、そして正義への強い意志があった。

「ところで、雨宮」田中が急に真剣な表情になった。「息子の研究資料の中に、お前の名前が出てきていたという話を聞いたことがある」

 蒼の心臓が跳ねた。

「僕の名前が?」

「ああ。記憶探偵能力を持つ被験者として、お前のケースが研究対象になっていた可能性がある」田中は眉をひそめた。「もしかすると、お前の記憶喪失も……」

 その時、会議室のドアが勢いよく開かれた。桜庭瑞希が息を切らして駆け込んできた。

「蒼、大変よ!」

「瑞希?どうしたんだ」

「研究所のデータベースに不正アクセスがあった。狙われたのは……」瑞希は一瞬言葉を詰まらせた。「あなたの記憶データと、田中さんの息子さんの研究資料よ」

 蒼と田中は顔を見合わせた。黒木の組織が再び動き出している。しかも、今度は二人に関する情報を直接狙ってきた。

「奴らは何を企んでいるんだ」田中が呟いた。

 蒼の脳裏に、不吉な予感が過った。自分と田中の息子を結ぶ線。それが何を意味するのか、まだ分からない。だが、確実に言えることは一つだった。

 戦いは、これから本格的に始まる。

 窓の外で夕日が沈み、夜の帳が東京の街を覆い始めていた。

記憶探偵と消えた昨日

12

田中の過去

水無月透

2026-04-01

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