黒い車に押し込まれた蒼の視界は、徐々に都心の喧騒から離れていく風景に変わった。建物は低くなり、街灯の光も疎らになる。瑞希の身を案じる気持ちが胸を締め付けるが、今は彼女を守るためにも冷静さを保たなければならない。
車は廃工業地帯の奥深くへと向かい、やがて無機質なコンクリート建造物の前で停車した。表向きは廃棄された工場のように見えるが、建物の周囲には最新の警備システムが張り巡らされている。
「懐かしいだろう、蒼」
黒木の声が暗闇に響く。建物の入口で待っていた彼は、かつての親友とは思えない冷たい笑みを浮かべていた。
「ここは君が生まれた場所だ」
蒼の胸に微かな既視感が走った。失った記憶の欠片が蠢いているのを感じるが、明確な形を結ぶことはない。
建物内部は外観とは裏腹に、最先端の設備で満たされていた。白い廊下の両側には無数の部屋があり、記憶可視化装置や脳波測定器などの機械が整然と並んでいる。
「君の記憶探偵としての能力も、ここで開発されたものだ」黒木は歩きながら説明を続けた。「我々は記憶操作技術の完成を目指し、被験者たちで様々な実験を行ってきた。君はその中でも最高傑作だった」
蒼の足音が廊下に響く。組織の研究員らしき人物たちとすれ違うたび、彼らは蒼を興味深そうに見つめた。まるで珍しい実験動物を観察するような視線だった。
「瑞希は無事なのか」
「もちろんだ。君が協力的である限りは」
エレベーターで地下へ降りると、空気が一変した。湿度が高く、薬品のような刺激臭が鼻を突く。蒼の胸に不安が広がった。
地下三階で扉が開いた瞬間、蒼は息を呑んだ。
そこは長い廊下の両側に監房のような部屋が並ぶ、まさに地下牢だった。しかし収容されているのは罪人ではない。白い病院着を着た人々が、ベッドの上でただ虚空を見つめていた。
「彼らは我々の実験体だ」黒木の声に感情はない。「記憶を抜き取られ、人格を失った者たち。いや、もはや『者』と呼ぶのも適切ではないな。記憶こそが人間を人間たらしめるものだからだ」
蒼は震え上がった。最初の部屋を覗き込むと、中年の男性が壁を見つめたまま微動だにしない。瞬きすらしていない。
「この人は元銀行員だった。妻と二人の子供がいて、休日には家族でキャンプに出かけるのが趣味だった」黒木は淡々と説明した。「しかし今の彼にとって、それらはすべて存在しないも同然だ。記憶を失った彼は、もはや夫でも父親でもない。ただの肉塊に過ぎない」
「なぜこんなことを…」
「実験だよ。記憶操作技術の完成には、多くのデータが必要だった。彼らは貴重な検体として貢献してくれている」
次の部屋には若い女性がいた。美しい顔立ちをしているが、その目には一切の感情が宿っていない。人形のように座り、同じ動作を繰り返している。
「彼女は元小学校教師だ。子供たちに愛され、教育に情熱を注いでいた。だが記憶を失った今、彼女は自分の名前すら知らない」
蒼の拳が震えた。これは明らかに人道に反する行為だった。だが同時に、自分もこの組織の一員だったという事実が重くのしかかった。
「君も以前はこの光景を見て何も感じなかった」黒木が振り返る。「記憶を失う前の君は、実験の成果を冷静に分析し、より効率的な記憶抽出方法を提案していた」
「嘘だ」蒼は否定したかったが、心の奥で微かな記憶の断片が蠢いているのを感じた。白衣を着た自分が、実験データを眺めている光景が脳裏をかすめた。
廊下の奥へ進むにつれ、収容者の数は増えていく。老人、若者、男性、女性。年齢も性別も様々だが、全員に共通しているのは、その空虚な表情だった。
「彼らの記憶はすべて記録され、データベース化されている」黒木は誇らしげに言った。「人間の記憶とは何か、どのように保存され、どのように呼び出されるのか。それらの謎を解明するための貴重な資料だ」
ある部屋で、蒼は足を止めた。中にいる少年は、自分と同じような年齢に見える。しかし彼も他の収容者と同様、生気を失った目をしていた。
「彼は君の実験パートナーだった」黒木の声が背後から聞こえる。「君と同時期に記憶能力開発実験を受けていたが、失敗作だった。記憶を読み取る能力を得る代わりに、自分の記憶を失ってしまった」
蒼の心に罪悪感が押し寄せた。自分が成功し、彼が失敗した。それは運の問題だったのだろうか、それとも他に理由があったのだろうか。
「君は特別だった、蒼」黒木は蒼の肩に手を置いた。「記憶探偵としての能力を得ながらも、人間性を保っていた。だからこそ我々は君を外に出し、実戦でデータを収集させた」
「僕は実験動物だったということか」
「そうとも言える。だが君は我々の最高傑作でもある」
最後の部屋に到達したとき、蒼は言葉を失った。そこにいたのは、白髪の老人だった。彼は他の収容者とは違い、わずかに意識があるように見える。
「教授…」黒木が低い声で呼びかけた。「君の作品が帰ってきましたよ」
老人がゆっくりと顔を上げる。その瞬間、蒼の記憶の奥底で何かが弾けた。この老人を知っている。記憶の欠損部分に確かに存在していた人物だ。
「蒼…なのか」老人の声はかすれていた。「すまない…すまない…」
「彼は記憶操作技術の第一人者だった桜井教授だ」黒木が説明する。「君の能力開発にも関わっていたが、実験の非人道性に疑問を持ち始めた。そこで我々は彼の記憶も調整することにした」
桜井教授の目に涙が浮かんでいる。彼はまだ完全には記憶を失っていないのだろう。だからこそ、自分が犯した罪の重さを理解している。
「この施設には約二百人の収容者がいる」黒木は振り返って言った。「すべて記憶操作実験の結果だ。そして君は、この技術をさらに発展させるための鍵なのだ」
蒼は絶望的な気持ちになった。自分の能力は、これほど多くの人々の犠牲の上に成り立っているのか。そして今度は自分が、さらなる犠牲者を生み出すための道具として使われるのか。
「明日から本格的な実験を再開する」黒木が時計を見た。「君の記憶探偵能力を解析し、より効率的な記憶操作技術の確立を目指す。そのためにも、まずは君の失われた記憶を取り戻してもらおう」
二人は地上へ戻る途中のエレベーターで、黒木が最後に言った。
「君が逃亡を考えているなら、思いとどまることだ。瑞希の命はもちろん、ここにいる収容者たちの命も君の協力にかかっている。君が反抗すれば、彼らは即座に処分される」
蒼の心は絶望に支配されていた。目の前に広がるのは、記憶を奪われた人々の地獄と、自分が背負う恐ろしい責任の重さだった。