蒼の意識がまだろうとする病室に、突然の喧騒が舞い込んだ。廊下を駆ける足音、切迫した声、そして―緊急事態を告げるアラーム音。
「何が起こっているんだ」
瑞希が立ち上がり、窓の外に目を向けた。病院の駐車場で、複数の黒いバンが停車している。男たちが素早く降りてくるのが見えた。
「まずい」田中刑事が病室に駆け込んできた。「奴らが来た。この病院の位置がバレている」
蒼は必死にベッドから起き上がろうとしたが、記憶混乱症候群の症状で体が言うことを利かない。視界がゆらめき、現実と記憶の境界が曖昧になる。
「雨宮、無理するな」田中が肩を押さえた。「お前はここにいろ。俺が時間を稼ぐ」
「待てよ、田中。一人じゃ危険すぎる」
「相手は本気で来てる。記憶操作装置を持ち込んでいる可能性も高い」田中は拳銃の安全装置を外しながら言った。「お前の能力が戻るまで、何としても守らなきゃならん」
瑞希が蒼の手を握った。「私も一緒に―」
「だめだ」田中が厳しい声で制した。「瑞希さん、あんたは雨宮と一緒にいてくれ。奴の記憶が完全に混乱したら、あんたしか引き戻せない」
病院の非常灯が点滅を始めた。組織の男たちが建物内に侵入したことを意味している。田中は深呼吸をして、いつもの飄々とした表情を浮かべた。
「しかし、まさか俺がヒーローになる日が来るとはな」
それは、蒼が見た田中の最後の笑顔だった。
銃声が響いたのは、田中が病室を出てから十分後のことだった。最初は散発的だったが、次第に激しい銃撃戦の音に変わっていく。
「田中さん...」
蒼は立ち上がろうとしたが、また眩暈に襲われた。記憶の断片が意識の中で踊り、現実の音が遠のいていく。幼い頃の田中との思い出、初めて記憶探偵として事件を解決した時の田中の誇らしげな表情、そして―先ほどの彼の決意に満ちた横顔。
「落ち着いて、蒼」瑞希が額に手を当てた。「今は現実に意識を集中して」
だが銃声は続いている。そして次第に、田中の声が聞こえなくなっていった。
静寂が訪れたのは、三十分後だった。その静寂は、蒼の心に重い石のような恐怖を落とした。
病室のドアがゆっくりと開かれた。現れたのは、見知らぬ男だった。組織の一員だが、なぜか敵意は感じられない。
「雨宮蒼さんですね」男は丁寧に頭を下げた。「申し遅れました。私は組織の一員でしたが、今は―違います」
「どういうことだ」
「田中刑事から託されました」男は血のついた封筒を差し出した。「彼は最後まで、あなたを守り抜こうとしていました。そして私に、これを渡すよう頼んだのです」
蒼の手は震えていた。封筒の重みが、田中の命の重さのように感じられる。
「田中は―」
「生きています。ですが、重傷です」男の声に痛みが滲んでいた。「彼の犠牲により、私は組織の計画の全貌を知ることができました。そして決意したのです。あなたに協力することを」
瑞希が封筒を開いた。中には、組織の施設配置図と、タブラ・ラサ計画の詳細な資料が入っていた。田中の血で汚れた紙には、彼の走り書きがある。
『雨宮、お前なら必ず止められる。俺を責めるな。これが俺の選択だ』
蒼の胸に、激しい痛みが走った。記憶混乱症候群の症状とは違う、純粋な感情の痛み。田中への罪悪感、自分の無力さへの怒り、そして―彼を失うかもしれない恐怖。
「すまない、田中...」
「彼は死んでいません」男が言った。「そして、彼の犠牲を無駄にしないためにも、私たちは行動しなければなりません」
資料を見ると、タブラ・ラサ計画の規模は想像以上だった。東京都内の複数の拠点で同時に記憶操作装置が起動され、数万人の記憶が一度に書き換えられる。実行時刻は明日の夜明け―もう二十時間を切っていた。
「中央制御装置は地下深くにあります」男が図面を指差した。「しかし、あなたの現在の状態では...」
「やる」蒼が立ち上がった。記憶の混乱はまだ続いているが、田中の犠牲を前にして、もう逃げることはできない。「田中が命をかけて手に入れた情報だ。無駄にはしない」
瑞希が心配そうに見つめていた。「でも蒼、あなたの記憶はまだ―」
「だからこそだ」蒼は瑞希の手を握った。「俺の記憶が混乱しているなら、相手の記憶操作も効きにくいかもしれない。皮肉なことに、今の状態が武器になるかもしれない」
男は深くうなずいた。「私の名前は佐藤です。元は組織で記憶技術の研究をしていました。田中刑事に救われ、目が覚めました」
「佐藤さん、組織の弱点はありますか」
「ひとつだけ。中央制御装置は、起動時に膨大なエネルギーを消費します。その瞬間だけ、防御システムが弱くなる。しかし、その時間はわずか三分間です」
三分間。その短い時間で、蒼は記憶の世界に潜り、システムを破壊しなければならない。しかも記憶混乱症候群を患った状態で。
病室の窓の外で、救急車のサイレンが響いた。田中を運んでいるのだろう。蒼は拳を握りしめた。
「瑞希、お前は病院に残って田中の看病を―」
「いいえ」瑞希がきっぱりと言った。「私も行く。あなたの記憶が混乱した時、私がいなければ戻ってこられない」
蒼は瑞希の決意を見て、反対する言葉を飲み込んだ。確かに、今の状態では彼女の存在が不可欠だった。
「分かった。だが絶対に無理はするな」
「それはこちらの台詞よ」瑞希が微笑んだ。「田中さんの分まで、私があなたを守る」
三人は病院を後にした。外の空気は冷たく、街の灯りが記憶の断片のようにゆらめいて見える。蒼の意識はまだ不安定だったが、心の奥底で確かな決意が燃えていた。
田中の犠牲を無駄にしない。そして、記憶という人間の尊厳を守り抜く。
最終決戦まで、残り二十時間を切っていた。