田中刑事への電話が繋がるまでの数秒間が永遠のように感じられた。東京スカイツリーの展望台から見下ろす夜景は美しく、しかしその光の一つ一つが、やがて黒木の攻撃対象となり得る記憶関連施設を表しているように思えて、蒼の胸を重苦しくした。
「田中さん、緊急事態です」
受話器の向こうで、田中の声に緊張が走る。
「雨宮か。どうした?」
「黒木と接触しました。来月、記憶技術関連施設への同時攻撃を予告されました。規模は想像以上です」
蒼は黒木との会話の詳細を簡潔に報告した。田中の沈黙が続く中、蒼は黒木の後ろ姿を目で追った。彼はもう展望台の反対側へ移動し、一人で夜景を見つめている。
「分かった。すぐに対策本部を設置する。だが雨宮、お前に頼みたいことがある」
「何でしょうか」
「記憶探偵の緊急召集だ。これは普通の犯罪じゃない。記憶空間での戦闘も想定しなければならない」
蒼の背筋が凍った。記憶空間での戦闘──それは史上初の試みとなる。
三日後、警視庁の特別会議室は異様な緊張感に包まれていた。集められたのは東京都内で活動する記憶探偵十二名。それぞれが特殊な能力を持つエリートたちだった。
「諸君」田中が立ち上がる。「我々は前例のない戦いに臨む。敵は記憶操作技術に精通し、恐らく記憶空間内での戦闘も可能だろう」
会議室に重い空気が流れる。記憶探偵の一人、眼鏡をかけた女性が口を開いた。
「田中刑事、記憶空間での戦闘とは具体的にどのようなものを想定しているのですか?」
「それを説明するために」田中は蒼を見た。「雨宮、お前から説明してくれ」
蒼は立ち上がると、プロジェクターに自分の記憶映像を投影した。黒木との過去の記憶が壁に映し出される。
「記憶空間での戦闘は、精神世界での直接対決を意味します」蒼は静かに説明を始めた。「相手の記憶に潜り込み、その構造を破壊したり、偽の記憶を植え付けたりする。最悪の場合、相手の人格そのものを破綻させることも可能です」
会議室に戦慄が走る。
「つまり」蒼は続けた。「これは単なる犯罪捜査ではありません。人間の尊厳と記憶技術の未来をかけた戦争です」
その時、警報が鳴り響いた。田中の携帯電話が激しく振動する。
「何?」田中が電話に出る。「分かった、すぐに向かう」
田中は顔を青ざめさせて振り返った。
「始まったぞ。新宿の記憶技術研究所が襲撃されている」
現場に到着した時、研究所は既に制圧されていた。しかし、これまでの犯罪とは明らかに様相が異なっていた。研究員たちは物理的な危害は受けていないが、全員が茫然自失の状態で座り込んでいる。
「記憶を操作されている」蒼は直感的に理解した。「みんな、自分が誰なのか分からなくなっている」
研究員の一人に近づき、蒼は慎重に彼の記憶に潜った。そこで見たものは戦慄すべき光景だった。記憶が意図的に断片化され、重要な部分が消去されている。まるで精密な手術のような記憶操作だった。
「これは黒木の仕業じゃない」蒼は呟いた。「彼よりもさらに技術的に進歩している」
「何だって?」田中が振り返る。
「黒木の背後に、さらに強力な記憶操作の専門家がいます」
その時、研究所の大型モニターが突然点灯した。画面に映し出されたのは、フードを被った複数の人影だった。
『記憶探偵諸君』電子音声が響く。『我々は「記憶解放戦線」だ。記憶技術による人間支配の時代を終わらせる』
蒼は身を硬くした。これは黒木の組織とは別の勢力だ。
『一週間後、東京都内の全記憶関連施設を同時攻撃する。記憶探偵も記憶技術の走狗として標的に含まれる』
画面が切り替わり、東京の地図が表示される。十数か所に赤い点が点滅している。
『抵抗する者は記憶を完全に破壊する。これは宣戦布告だ』
モニターが暗転する。会議室に重い沈黙が落ちた。
「記憶戦争の始まりか」田中が重々しく呟いた。
蒼の脳裏に瑞希の顔が浮かんだ。彼女の研究所も攻撃対象に含まれているはずだ。
「田中さん、すぐに桜庭博士に連絡を取ってください。彼女の安全を確保する必要があります」
「分かった。だが雨宮、お前はどうする?」
蒼は固く拳を握りしめた。黒木との個人的な確執から始まったこの事件が、今や記憶技術の存続をかけた全面戦争に発展している。
「記憶空間での迎撃準備を始めます」蒼は冷静に答えた。「相手が記憶戦争を望むなら、我々も同じ土俵で戦うしかありません」
その夜、蒼は自分のアパートで記憶空間への深い潜行を試みた。通常の記憶探索とは異なり、今回は戦闘を想定した特殊な精神状態を作り出す必要がある。
記憶の深層に潜りながら、蒼は自分の戦闘用人格を構築していく。記憶空間では、想像力と精神力が直接的な武器となる。相手の記憶を破壊することも、自分の記憶を守り抜くことも、すべては精神の強度にかかっている。
潜行を続けていると、突然異質な気配を感じた。誰かが蒼の記憶空間に侵入している。
『久しぶりだな、蒼』
聞き慣れた声が記憶の奥底で響く。黒木だった。
『黒木か。記憶空間での接触とは珍しいな』
『俺たちは記憶解放戦線とは関係ない。だが、彼らの攻撃は止められない』
記憶空間の中で、蒼と黒木の精神体が対峙する。ここでは物理的な制約はない。純粋な意思と意思の対決だ。
『お前にも見えているはずだ』黒木の精神体が歪む。『この戦争の行き着く先が』
蒼の記憶空間に映像が流れ込む。記憶技術によって支配された社会、人間性を失った人々、そして最終的に訪れる文明の崩壊。
『だからといって、技術を破壊することが正解なのか?』
『他に道はない』
両者の精神エネルギーが激突する。記憶空間が激しく揺れ、現実世界の蒼の身体も震え始める。これが記憶空間での戦闘だった。
激しい精神的な攻防の末、黒木の精神体が薄れていく。
『蒼、最後に一つだけ言っておく』黒木の声が遠ざかる。『記憶解放戦線の正体を調べろ。彼らは我々が思っているよりもはるかに危険だ』
接続が切れ、蒼は現実世界に戻った。額には冷や汗が浮かんでいる。
史上初の記憶戦争が、ついに始まったのだ。そして蒼は直感していた。この戦いの結末が、人類の未来を決定することになると。