紬から連絡が来たのは、あの夜から三日後の午後だった。
「朔夜様、お時間はございますでしょうか。お見せしたいものがあるのです」
電話の向こうで、彼女の声はいつになく真剣だった。何かを決意したような、そんな響きがある。
「今すぐにでも」
僕は迷わず答えた。自分の失われた記憶について考え続けて三日間、答えの見えない迷路を彷徨っていた僕にとって、紬の言葉は一筋の光のように感じられた。
待ち合わせ場所は霞ヶ丘神社の境内だった。古い石段を上がると、紬は本殿の前で僕を待っていた。普段の巫女装束ではなく、黒い着物に身を包んだ彼女は、どこか儀式的な厳かさを纏っている。
「お待ちしておりました」
振り返った紬の表情は、いつもの柔らかさの中に、強い意志を秘めていた。
「紬、一体何を」
「朔夜様の記憶のこと、ずっと考えておりました。もしかすると、あの場所でなら何かが分かるかもしれません」
あの場所、と紬は言った。
「ついて来てください。でも、覚悟を決めて」
紬は本殿の裏手に向かって歩き始めた。境内の奥、普段は立ち入り禁止の札がかかった場所だ。古い石灯籠が並ぶその先に、小さな祠がある。
「ここは」
「織部の一族が代々守り続けてきた、真の聖域です」
紬は祠の前で立ち止まると、懐から小さな鍵を取り出した。祠の扉には、見たこともない複雑な紋様が刻まれている。記憶に関する何かの象徴なのだろうか。
鍵穴に鍵を差し込むと、微かな光が紋様に宿った。扉がゆっくりと開き、中から冷たい空気が流れ出てくる。
「中は階段になっております。足元にお気をつけて」
祠の中は予想以上に広く、石段が地下へと続いていた。紬が持つ小さな提灯の光だけを頼りに、僕たちは静寂の中を降りていく。
十メートル、二十メートル。想像していたよりもはるかに深い。空気は次第に湿り気を帯び、どこからともなく微かな響きが聞こえてくる。水の流れる音だろうか。それとも。
「もうすぐです」
紬の声が石壁に反響する。階段の先に、仄かな光が見えてきた。
そして僕たちが辿り着いたのは、言葉を失うほど美しい空間だった。
広大な地下空間に、無数の光の粒が浮遊している。まるで天の川を地下に移したかのような、幻想的な光景だ。光の粒はゆっくりと舞い踊り、時折、色を変えながら輝いている。
「これは」
「想起の間です」
紬の声は、深い敬意に満ちていた。
「霞ヶ丘市に住む人々の記憶が、ここに蓄積されているのです。古代から現代まで、数えきれないほどの記憶が」
近づいてみると、光の粒の一つ一つが、小さな影絵のように見えた。人の顔、風景、日常の一コマ。それらが静かに漂い、時折触れ合って新しい輝きを生み出している。
「美しい」
思わず呟いた言葉が、空間に吸い込まれていく。
「記憶番人の使命とは、これらの記憶を守ることなのです」紬が説明する。「人が忘れてしまった記憶も、失われたと思われた記憶も、実はここに還ってくるのです」
僕は光の海を見つめながら、圧倒的な畏敬の念を感じていた。これほどまでに多くの記憶が存在しているなんて。人の営みの重さ、記憶の尊さが、直接心に響いてくる。
「朔夜様の記憶も」
紬が僕の方を向く。
「もしかすると、ここのどこかに」
その時だった。僕の影が、勝手に動き始めた。足元に広がる影が、まるで生き物のように蠢いている。そして影から、小さな光の粒が立ち上った。
「朔夜様」
紬の驚いた声が聞こえる。僕の影から生まれた光の粒は、ゆっくりと想起の間の記憶の海に混じっていく。しかし、その光は他の記憶とは明らかに違っていた。
暗く、重い色をしている。
そして、その暗い光に反応するように、想起の間の奥から別の光が近づいてきた。古い、とても古い記憶の光だ。
「あれは」紬が息を呑む。「古代の番人の記憶」
古代の記憶と僕の暗い記憶が触れ合った瞬間、想起の間全体に微かな振動が走った。まるで、長い間封印されていた何かが動き出したかのように。
「朔夜様、これは一体」
紬の問いかけに答えられずにいた僕の前で、二つの光がゆっくりと融合していく。そして、その光の中に、ぼんやりとした映像が浮かび上がった。
燃える建物。泣き叫ぶ人々。そして、小さな子供の後ろ姿。
記憶の映像は一瞬で消えたが、僕の中に強烈な既視感が残った。この光景を、僕は確実に見たことがある。
「紬」
僕は震え声で呼びかけた。
「僕の失われた記憶と、古代の番人の記憶に、何か繋がりがあるのか」
紬の顔は青ざめていた。彼女もまた、先ほどの映像を見ていたのだ。
「分かりません。でも」彼女は唇を噛んだ。「もしかすると、朔夜様は」
その時、想起の間の入り口の方から、冷たい風が吹き込んできた。忘却獣の気配だ。しかも、今までとは比べものにならないほど強い。
「まずい」紬が立ち上がる。「ここを見つけられては」
想起の間の記憶の光が、一斉に震え始めた。まるで恐怖に怯えているかのように。
僕の影も、再び激しく蠢いている。まだ見ぬ記憶が、影の奥で蠢いているのを感じる。
足音が階段を下りてくる音が聞こえた。ゆっくりとした、確信に満ちた足音。
「久しぶりだな、朔夜」
聞き覚えのある声が、想起の間に響いた。
黒羽憂だった。
「ようやく、思い出し始めたようだな。君の本当の記憶を」
僕の全身に戦慄が走った。彼の言葉の意味を、理解したくなかった。