椿野老師の古書店の奥座敷で、朔夜は正座して師の話に耳を傾けていた。昨夜のコンサート会場での出来事は、まだ心の奥でざらついた違和感として残っている。黒羽憂の音色が記憶を曖昧にし、自分の影絵師としての力を削いでいったあの感覚を、朔夜は忘れることができずにいた。
「朔夜よ、昨夜の一件でお主も感じたであろう。記憶というものの脆さと、同時に恐ろしさを」
老師の声は普段の飄々とした調子とは違い、どこか厳粛な響きを帯びていた。朔夜は小さく頷く。
「はい。自分の記憶すら曖昧になって、影絵を映し出すことができなくなりました」
「そうじゃ。じゃがな、それはまだ序の口に過ぎぬ。記憶の世界には、決して触れてはならぬ領域がある。今日はそのことについて話そう」
老師は立ち上がると、書棚の奥から一冊の古い革装丁の書物を取り出した。表紙には見慣れない文字が刻まれており、朔夜が目を凝らして見ようとすると、文字がぼやけて見えなくなる。
「これは『禁書・記憶の深層』という書物じゃ。影絵師として一人前になった者のみが読むことを許される」
朔夜の胸が高鳴った。自分もついにその域に達したのだろうか。しかし、老師の表情は決して喜ばしいものではなく、むしろ重苦しい責任感に満ちていた。
「記憶には階層がある。表層記憶、深層記憶、そして最も奥深くにある原初記憶。お主がこれまで映し出してきたのは、主に表層記憶じゃ」
朔夜は思い返してみる。紬の思い出、依頼者たちの大切な記憶。確かにそれらは比較的新しく、鮮明なものが多かった。
「深層記憶になると、人の根幹に関わる記憶が眠っている。幼少期の記憶、忘れ去られた trauma、そして時として前世の記憶さえも」
「前世の、記憶...」
朔夜の声は震えていた。それは興味というよりも、本能的な恐れに近かった。
「そうじゃ。じゃがそれでも、深層記憶までならば、熟練した影絵師が慎重に扱えば危険は少ない。問題は原初記憶じゃ」
老師は書物をゆっくりと開いた。ページから立ち上る古い紙の匂いに混じって、何とも形容しがたい違和感のある香りが漂ってくる。
「原初記憶とは、人が人である前から持つ記憶。生命の根源に刻まれた太古の記憶じゃ。それは時として、人の理性では理解できぬ混沌とした情報の塊となっている」
「それを影絵にしてしまうと...」
「見た者の精神が破綻する。最悪の場合、その者の人格そのものが崩壊してしまうこともある」
朔夜は背筋に冷たいものが走るのを感じた。自分の能力には、そのような恐ろしい側面があったのか。
「じゃから影絵師には、絶対的な制限が設けられておる。原初記憶に触れることは禁忌。それを破った影絵師は、例外なく狂気に飲み込まれてきた」
老師のページをめくる音だけが、静寂を破っていた。朔夜は自分の手を見つめる。この手で、人を狂気に陥れることもできてしまうのだ。
「でも、どうすればそれを見分けることができるのでしょうか」
「良い質問じゃな。記憶には独特の『重さ』がある。原初記憶は異常に重く、影絵師が触れようとすると強烈な拒絶反応を示す。頭痛、眩暈、時には幻覚も現れる」
朔夜は以前、ある依頼で体験した激しい頭痛を思い出した。あの時は疲労のせいだと思っていたが、もしかすると...
「実はな、朔夜よ。お主の能力は他の影絵師よりも格段に強い。それゆえに、原初記憶に触れる危険性も高いのじゃ」
「え...」
「普通の影絵師では決して到達できぬ深さまで、お主は潜ることができる。それは素晴らしい才能じゃが、同時に大きな危険でもある」
朔夜の心に不安が広がっていく。自分の能力を誇らしく思っていたが、それが諸刃の剣だったとは。
「だからこそ、お主には特別な制限を設ける必要がある」
老師は朔夜の手を取ると、古い筆で何かの文字を手のひらに書き始めた。筆先が触れると、その部分が温かくなり、やがて薄く光り始める。
「これは『抑制の印』じゃ。お主が原初記憶に近づきすぎた時、この印が警告を発し、強制的に能力を停止させる」
手のひらに刻まれた文字は、やがて肌に溶け込むように消えていった。しかし、朔夜には確かにその存在を感じることができた。
「この印があれば、お主は安全に能力を使うことができる。じゃが同時に、お主の力は制限されることになる」
「それで、いいんです」
朔夜は迷わず答えた。自分の能力で誰かを傷つけるくらいなら、制限があった方がずっと良い。
「賢明な判断じゃ」
老師は満足そうに頷いたが、その表情にはまだ何かを隠している様子が見えた。
「ただしな、朔夜よ。この印にも限界がある。極度に強い意志や感情によって、印が破られることがあるのじゃ」
「どういう時に...」
「愛する者を救おうとする時、憎しみに燃える時、そして絶望に支配された時。人の感情が極限に達すると、どんな制限も意味をなさなくなる」
朔夜は紬の顔を思い浮かべた。もし彼女に何かあった時、自分は冷静でいられるだろうか。
「覚えておくのじゃ。禁忌の扉は、常にお主の心の奥に存在している。それを開くか開かないかは、最終的にはお主自身の選択にかかっているのじゃ」
夕日が古書店の窓を染める頃、朔夜は重い足取りで店を後にした。新たに知った自分の能力の真実は、誇りと同時に大きな責任をもたらしていた。
街を歩きながら、朔夜は手のひらの見えない印を意識する。これが自分を、そして周りの人々を守ってくれるのだ。しかし同時に、老師の最後の警告が心に引っかかっていた。
愛する者を救おうとする時。
その時、自分は本当に理性を保っていられるだろうか。朔夜は夜空を見上げながら、いつか必ず訪れるその時のことを考えずにはいられなかった。
そして、どこかで黒羽憂の影が蠢いていることを、朔夜はまだ知らなかった。