巨大な忘却獣の気配に身を強張らせていた朔夜だったが、それが杞憂だったと知れたのは数分後のことだった。忘却獣の気配は風に散るように消え、境内には再び静寂が戻る。
「偽りの気配でしたね」
紬が安堵の息を漏らした。朔夜も肩の力を抜く。最近、このような偽の気配が頻発していた。椿野老師によれば、記憶の流れが不安定になっている証拠だという。
「帰ろうか」
朔夜は立ち上がり、紬に手を差し伸べた。彼女は一瞬躊躇ったが、その手を取って立ち上がる。
「ありがとうございます、朔夜さん」
石段を降りながら、朔夜は今夜の紬の涙を思い返していた。記憶番人として生きてきた彼女の重荷の一端を垣間見た気がして、胸の奥が重苦しい。
商店街に差し掛かったとき、それは突然始まった。
朔夜の足元に、いつの間にか自分の影が薄く広がっている。いや、影ではない。それは記憶を映し出す影絵だった。
「朔夜さん?」
紬の声が遠く聞こえる。朔夜は慌てて能力を制御しようとしたが、影絵はむしろ勢いを増して広がっていく。アスファルトの上に、見知らぬ人々の記憶が次々と浮かび上がった。
子供の頃の夏祭り。初恋の告白。家族との食卓。喧嘩の場面。涙の別れ。
「止まれ!」
朔夜は必死に念じたが、影絵は制御を完全に離れていた。それどころか、影は朔夜の足元から放射状に広がり始め、商店街全体を覆い始める。
「これは……」
紬の顔が青ざめた。影絵は今や街路全体に広がり、通りがかりの人々の記憶までもが次々と映し出されている。コンビニから出てきた男性の影に、彼の初任給で母親にプレゼントを買った記憶が踊る。向かいのアパートの窓際に立つ女性の影には、亡くした猫への想いが滲んでいる。
「朔夜さん、落ち着いて」
紬が朔夜の肩に手を置いたが、その瞬間、彼女の影にも記憶が現れた。母親の面影、記憶番人の修行、そして今夜神社で流した涙——朔夜の能力は見境なく全てを映し出している。
「駄目だ、止められない」
朔夜の声は震えていた。これまでにない規模の暴走だった。影絵は街区を越えて広がり続け、住宅地の方まで侵食している。遠くから、人々の困惑する声が聞こえてくる。
「何これ、地面に映画が映ってる!」
「誰かの記憶みたい……」
「気持ち悪い、消して!」
朔夜の額に冷や汗が浮かんだ。関係のない人々を巻き込んでしまっている。しかも、映し出されているのは極めて私的な記憶ばかりだった。人に見られたくない恥ずかしい記憶、秘密にしていた想い、誰にも話したことのない過去——それらが街じゅうに晒されている。
「どうして今になって……」
朔夜は膝をついた。これまで、能力の暴走はあったが、ここまで広範囲に及んだことはない。そして何より不可解なのは、なぜ自分が直接触れていない人々の記憶まで影絵になっているのかということだった。
「朔夜さん、深呼吸して」
紬は朔夜の前に座り込み、彼の手を握った。
「わたくしの声に集中してください。他は何も考えず、ただわたくしの声だけを」
しかし、朔夜の意識は混乱していた。街に溢れる無数の記憶が彼の心に流れ込んでくる。他人の喜び、悲しみ、怒り、恐れ——それら全てが朔夜の中で渦巻いている。
「痛い……頭が」
朔夜は頭を抱えた。記憶の濁流に呑まれそうになる。
そのとき、遠くから椿野老師の声が聞こえた。
「朔夜君! 周囲の記憶に意識を向けるな! 自分の核となる記憶に集中しろ!」
老師の声は的確だった。朔夜は必死に自分の記憶を探る。紬と初めて出会った日、椿野老師との修行、そして今夜、神社で交わした約束——。
少しずつ、他人の記憶の流入が弱くなる。だが、影絵は依然として街に広がったままだった。
「老師!」
椿野老師が商店街に現れた。いつもの飄々とした様子はなく、深刻な表情を浮かべている。
「これは単純な能力暴走ではないな」老師は周囲の影絵を見回した。「誰かが意図的に朔夜君の能力を増幅させている」
「増幅?」紬が振り返る。
「そうだ。朔夜君の能力は本来、直接接触した相手の記憶しか映し出せない。それが今、街全体の記憶を無差別に映している。これは外部からの干渉がなければ不可能だ」
老師の言葉に、朔夜は背筋が凍る思いがした。つまり、誰かが自分の能力を利用して、この事態を引き起こしているということだ。
「黒羽憂……」
朔夜が呟いた瞬間、街の向こうから低い笑い声が響いた。影絵に混じって、美しい男性の姿がゆっくりと現れる。
「ご名答だよ、影絵師」
黒羽憂だった。彼は夜の闇から歩み出てくる。その周囲には、小さな忘却獣たちが浮遊していた。
「君の能力は実に興味深い。記憶を視覚化する——それは記憶を破壊する我々にとって、格好の道具になる」
「道具だと?」
朔夜は立ち上がった。怒りが暴走への恐怖を上回る。
「そうだ。君が映し出した記憶を、我が忘却獣たちが一気に食い尽くす。効率的だろう?」
黒羽憂が手を上げると、忘却獣たちが一斉に街へ散らばった。影絵として映し出された記憶を、次々と喰らい始める。
「やめろ!」
朔夜は能力を止めようと必死になったが、黒羽憂の干渉により制御が利かない。
「無駄だよ。君の能力は今、私が操っている」
黒羽憂の瞳が暗く光った。「さあ、この街の記憶を全て白紙に戻そう。そうすれば、人々はもう無駄な過去に縛られることはない」
街に悲鳴が上がった。記憶を失った人々が、困惑し、泣き叫んでいる。
朔夜の中で、何かが音を立てて崩れ落ちた。