鈴の音が響いた瞬間、世界が変わった。
朔夜の視界を埋め尽くしていた忘却獣王の巨大な爪が、まばゆい光に遮られて停止する。その光の中から現れたのは、藍色の袴を翻し、両手に清らかな霊力を宿した紬だった。
「朔夜さん!」
彼女の声に、朔夜の心臓が再び鼓動を始めた。死の淵から引き戻されるような感覚に、朔夜は呆然と紬を見つめる。
「なぜ……どうしてここに」
「決まっているではありませんか」
紬は振り返ることなく、忘却獣王を見据えたまま答えた。その横顔に、朔夜は見覚えのある決意の光を見た。
「貴方が呼んでくださったのでしょう? その鈴の音を聞いて、参りました」
忘却獣王が咆哮を上げ、再び襲いかかってくる。しかし紬は怯まない。両手を天に向け、古い呪文を詠唱し始めた。
「聖なる記憶の守護者よ、その力をお貸しください――」
紬の周囲に淡い光の結界が張られ、忘却獣王の攻撃を弾く。だが巨大な忘却獣の力は凄まじく、結界にひび割れが走り始めた。
「紬、一人では無理だ!」
朔夜は立ち上がろうとするが、先ほどの攻撃で負った傷が深く、体に力が入らない。しかし彼の影は違った。まるで意志を持つかのように蠢き、廃工場の壁に伸びていく。
「朔夜さん、貴方の影絵の力を」
紬の言葉に、朔夜は気づいた。一人で戦う必要などないのだ。二人の力を合わせれば――。
「分かった。君の記憶を貸してくれ」
朔夜は手を伸ばし、紬の手を握った。その瞬間、二人の能力が共鳴する。紬の持つ記憶の守護力と、朔夜の影絵の具現化能力が融合し、これまでにない強大な力が生まれた。
工場の壁に映し出されたのは、古の記憶番人たちの姿だった。代々受け継がれてきた記憶の守護者たちが、影絵として現実に顕現する。彼らは一糸乱れぬ動きで忘却獣王を取り囲み、聖なる武器を構えた。
「これは……」
忘却獣王すら、その光景に動揺を隠せない。
「私たちの先祖の記憶です」紬が説明した。「代々受け継がれてきた、記憶を守る意志そのもの」
影の記憶番人たちが一斉に動き出した。彼らの武器は忘却獣に対して絶大な効果を発揮し、巨大な獣の体に次々と傷を負わせていく。忘却獣王は苦悶の声を上げながら後退した。
「今です、朔夜さん!」
紬の声に応え、朔夜は最後の力を振り絞った。自分の記憶の中から、最も大切なものを選び出す。それは紬と出会った日の記憶だった。初めて誰かと心を通わせた、かけがえのない瞬間。
その記憶が影絵となって現れ、忘却獣王の心臓部を貫いた。光の矢となった記憶は、獣の体内で眩い輝きを放つ。
「記憶は……決して失われない……」
忘却獣王の巨体が崩れ落ち、無数の光の粒子となって空中に消散していく。廃工場に静寂が戻った。
朔夜は膝をつき、荒い息を吐いた。全身の力が抜け、立っていることすらできない。しかし心は不思議と軽やかだった。
「朔夜さん!」
紬が駆け寄り、朔夜を支える。彼女の温かな手が、朔夜の頬に触れた。
「もう大丈夫です。終わりました」
朔夜は紬を見上げた。月明かりに照らされた彼女の顔は、慈愛に満ちていた。
「ごめん」朔夜は呟いた。「一人で何とかしようとして。君を遠ざけて」
「いえ」紬は首を振った。「貴方が最後に私を呼んでくださったから、それで十分です」
二人は寄り添いながら立ち上がった。朔夜の傷は深かったが、紬の治癒の力で痛みは和らいでいく。
「紬」朔夜は真剣な顔で言った。「一緒に戦ってくれるか? これからも」
紬の瞳が驚きに見開かれ、そして微笑みが浮かんだ。
「はい。もちろんです」
二人は手を取り合い、廃工場を後にした。
翌日、椿野老師の古書店で、朔夜と紬は今後の方針について話し合っていた。
「なるほど、連携技を体得したか」老師は感心したように頷いた。「それは素晴らしい進歩じゃな」
昨夜の戦いで、二人は新たな可能性を発見していた。単独で戦うより、協力することで何倍もの力を発揮できることを。
「でも、まだ課題は多いね」朔夜は自分の手を見つめながら言った。「能力の制御も完璧じゃないし、連携もまだまだだ」
「それなら練習すればよろしいではありませんか」紬が明るく答えた。「二人でなら、きっと上達も早いでしょう」
老師は二人の様子を見て、満足そうに微笑んだ。
「じゃあ、早速特訓と行くか」朔夜が立ち上がると、紬も同じように立ち上がった。
二人は古書店の裏手にある中庭に向かった。そこは老師が用意した特別な訓練場で、記憶の力を安全に練習できるよう結界が張られている。
「まずは基本的な連携から始めましょう」紬が提案した。
朔夜は頷き、影絵の準備を始めた。紬は記憶の守護力を展開し、朔夜の能力を安定させる。二人の力が調和し、美しい光景が中庭に現れた。
それは春の桜並木だった。淡いピンクの花びらが舞い踊り、温かな日差しが二人を包み込む。
「綺麗……」紬が息を呑んだ。
「君の記憶だよ」朔夜が説明した。「子供の頃の春の思い出」
二人は桜の下で向き合った。朔夜の影絵と紬の記憶守護の力が完全に同調している。これまで感じたことのない一体感だった。
「これなら、どんな忘却獣が相手でも戦える」朔夜が自信を込めて言った。
しかし紬の表情は少し曇った。
「朔夜さん、一つお聞きしたいことが」
「なに?」
「黒羽憂のことです。あの方はなぜ記憶を破壊しようとするのでしょうか」
朔夜も表情を引き締めた。忘却獣王を倒したとはいえ、黒羽憂という真の敵はまだ健在だった。
「分からない。でも必ず突き止める」朔夜は拳を握った。「今度は一人じゃない。君と一緒なら」
桜の影絵が風に揺れ、花びらが二人の周りを舞った。それは美しくも儚い光景だったが、二人の絆は確固としたものになっていた。
その夜、霞ヶ丘市の高層ビルの屋上で、黒羽憂は遠く廃工場の方角を見つめていた。忘却獣王の消滅を感じ取った彼の表情には、怒りと同時に興味深そうな色が浮かんでいた。
「なるほど、連携技か」黒羽憂は独り言を呟いた。「面白い。だが、それで全てが変わると思うなよ、夕凪朔夜」
彼の足元に、新たな忘却獣の群れが集まり始めていた。今度は一体ではない。数十体の忘却獣が、黒羽憂の命令を待っている。
「次はもっと楽しませてもらおう」
黒羽憂の笑い声が、夜風に乗って街へ流れていった。