霞ヶ丘市の古い街並みに夕日が沈みかける頃、椿野老師の古書店には静寂が戻っていた。朔夜は窓際の椅子に腰掛け、田中美穂の記憶の欠片を影絵で再生しながら、その精巧な抜き取り技術について考えを巡らせていた。
「メモリーバンクか……」
朔夜の呟きに、紬が顔を上げる。彼女は古い書物を手に、記憶売買に関する文献を調べていたところだった。
「朔夜様、この文献によれば、記憶の売買は古来より禁忌とされてきました。それは記憶が単なる情報ではなく、魂の一部であるが故に」
「魂の一部、か」
朔夜は自分の手のひらを見つめた。この手で映し出される影絵は、確かに人の魂に触れる感覚があった。それを売買するなど、考えただけで胸が悪くなる。
そのとき、店の扉を叩く音が響いた。椿野老師が奥から現れ、「はいはい」と声をかけながら扉を開ける。
現れたのは、四十代半ばと思われる上品な女性だった。薄紫の着物を纏い、どこか憂いを帯びた美しい顔立ちをしている。しかし、朔夜はその女性を見た瞬間、言葉を失った。
「あの……こちらに影絵師の方がいらっしゃると伺いまして」
女性の声は澄んでいて、朔夜の記憶の奥深くで何かが共鳴した。
「影絵師なら、そこにおりますが」椿野老師が朔夜を指差す。「朔夜くん、お客様ですよ」
朔夜は立ち上がろうとしたが、足がすくんで動けない。女性は朔夜を見つめ、その瞬間、彼女の瞳に涙が浮かんだ。
「まあ……本当に、よく似ていらっしゃる」
「え?」
紬が朔夜と女性を交互に見る。女性は慌てたように手で涙を拭い、深く頭を下げた。
「申し遅れました。私、桜井雅美と申します。実は……あなた様に、お願いがございます」
朔夜はようやく声を絞り出した。
「どのような、お願いでしょうか」
雅美と名乗った女性は、震える手で小さな写真を取り出した。それは、朔夜と瓜二つの顔立ちをした女性の写真だった。
「この人は、私の親友だった夕凪澄子さんです。十九年前、突然姿を消してしまいました。最後に会ったとき、彼女は『大切な記憶を託したい人がいる』と言っていたのですが……」
夕凪澄子。朔夜の母の名前だった。
朔夜の顔が青ざめるのを見て、紬が心配そうに立ち上がる。椿野老師も眉をひそめた。
「その、澄子さんとあなたは?」雅美が恐る恐る尋ねる。
「……母です」
朔夜の答えに、雅美の瞳が大きく見開かれた。
「朔夜……朔夜くんなのですね。澄子が、いつも話していました。『私の大切な息子』だと」
「母のことを、ご存知なのですか」
雅美は頷き、写真を大切そうに胸に抱いた。
「澄子さんとは学生時代からの親友でした。彼女が結婚して、あなたが生まれたときも、とても幸せそうでした。でも……」
「でも?」
「あなたが三歳になった頃から、澄子さんは変わってしまいました。『記憶に追われている』『朔夜を守らなければ』と、いつも怯えているようで……」
朔夜の心に、幼い頃のおぼろげな記憶が蘇る。夜中に泣いている母の声。窓の外を不安そうに見つめる母の横顔。そして、ある朝突然、母がいなくなったこと。
「最後に会ったとき、澄子さんは私にこれを預けました」
雅美が取り出したのは、小さな水晶のペンダントだった。中に、薄い影のようなものが揺らめいている。
「これは……」朔夜が息を呑む。
「記憶の欠片ですね」紬が驚いて呟く。「非常に古い術式で封じられています」
雅美は頷いた。
「澄子さんは言いました。『もし朔夜が私を探すようになったら、これを渡してほしい』と。『でも、まだ幼い今は、この記憶は重すぎる』と」
朔夜は震える手でペンダントを受け取った。水晶に触れた瞬間、母の温もりを感じたような気がした。
「この記憶には、何が?」
「分かりません。でも澄子さんは、『朔夜を守るために必要な真実』だと言っていました」
椿野老師が口を開いた。
「朔夜くん、その記憶を見るのは危険かもしれません。君のお母さんが封印したということは、相応の理由があるはずです」
朔夜はペンダントを見つめた。長い間探し続けた母の手がかり。しかし、なぜ母は自分を置いて消えたのか。その答えがここにあるのだろうか。
「雅美さん、母は……なぜ消えたのでしょうか」
雅美の表情が曇る。
「最後に会ったとき、澄子さんは『記憶を狙う者たちから朔夜を守るため、私が囮になる』と言っていました。そして……『朔夜の能力は、いずれ世界を変える力になる』と」
朔夜の能力が世界を変える力。その言葉が胸に突き刺さった。
紬が朔夜の肩に手を置く。
「朔夜様、お母様は朔夜様を愛しているからこそ、そのような選択をされたのでしょう。そして今、朔夜様がその記憶と向き合う時が来たのかもしれません」
朔夜は深く息を吸い、決意を固めた。
「この記憶を見させてください。母が何を伝えようとしたのか、知りたいのです」
雅美が心配そうに眉をひそめる。
「でも、危険なのでは……」
「大丈夫です。僕には紬がついています。それに、母の記憶から逃げ続けるわけにはいきません」
朔夜は影絵の術式を展開し、ペンダントに手をかざした。水晶から薄い光が立ち上り、壁に母の影が映し出される。
しかし、映し出された記憶は朔夜の想像を遥かに超えるものだった。そこには、黒羽憂に似た男性と対峙する母の姿があった。そして、幼い朔夜を背後に隠しながら、何かを必死に訴えている母の声が聞こえてくる。
「朔夜の能力を悪用させるわけにはいきません。この子は、記憶を守るために生まれてきた子なのです」
影絵の中の男性が冷笑する。
「夕凪澄子、君の息子の能力は我々の計画に必要だ。記憶を完全に支配する技術を完成させるために」
「それなら、私が代わりになります。朔夜には手を出さないと約束して」
朔夜は愕然とした。母は自分を守るために、自らを犠牲にしたのだ。そして、それは黒羽憂の組織と関係していた。
記憶が終わると、店内に重い沈黙が流れた。
「朔夜様……」紬が心配そうに声をかける。
朔夜は拳を握りしめた。母の犠牲の上に、今の自分がある。そして、黒羽憂は十九年前から記憶を狙い続けていたのだ。
「母は、まだ生きているのでしょうか」
雅美が首を振る。
「分かりません。でも、澄子さんは強い人です。きっと……」
その時、店の外から不穏な気配が漂ってきた。紬が警戒の表情を浮かべる。
「朔夜様、何者かが近づいてきます」
朔夜は窓の外を見た。街の向こうから、黒い影が複数近づいてくる。忘却獣の群れだった。そして、その後ろから現れたのは……
「黒羽憂」
朔夜の呟きに、雅美が震え上がった。
「まさか、あの人が……」
黒羽憂の声が夕暮れの街に響く。
「夕凪朔夜、君の母の記憶を見たようだね。ならば、真実を教えてあげよう。君の母は、今も我々と共にいる」
朔夜の心臓が激しく鼓動した。母が生きている。しかし、それは希望なのか、それとも絶望なのか。
「紬、雅美さんを安全な場所へ」
「朔夜様、お一人では危険です」
「大丈夫。母の記憶を見て、僕にも分かったことがある」
朔夜の瞳に、これまでにない強い光が宿った。母の愛と犠牲を知った今、もう迷いはなかった。