想起の間の最深部から戻った翌日、朔夜は椿野老師の古書店で見慣れない光景を目にした。店の奥の作業机に、老師が数十枚の写真を並べて険しい表情で見つめている。
「老師、それは何ですか」
朔夜の声に老師は振り返ると、深いため息をついた。
「困ったことになった。これを見てくれ」
老師が指差したのは、霞ヶ丘市内で撮影されたと思われる古い写真だった。街角の風景、祭りの様子、家族の記念写真。どれも何十年も前のもののように見える。
「これらの写真に写っている記憶を影絵で映してもらいたい」
朔夜は首を傾げながらも、写真の一枚に手をかざした。いつものように影絵が浮かび上がる。祭りで賑わう商店街の風景。浴衣を着た人々が提灯の明かりの下で笑い合っている。
しかし、何かが違う。
「おかしい」朔夜は眉をひそめた。「この記憶、薄いです。それに...継ぎ接ぎのような感じがします」
「やはりそうか」老師は写真を手に取った。「これらは全て偽の記憶だ」
朔夜の背筋に悪寒が走った。
「偽の記憶?そんなことが可能なのですか」
「残念ながら、な。記憶というものは思っているより脆弱で、巧妙に作られた偽記憶は本物と区別がつかない場合がある」
店の扉が開き、紬が息を切らして駆け込んできた。
「朔夜様、椿野老師」紬の顔は青ざめている。「大変なことが起こっております。街の人々が、存在しない過去について語り始めているのです」
「詳しく聞かせてください」老師が身を乗り出した。
「昨日まで独り身だった商店街の魚屋の主人が、突然亡くなった妻のことを語り始めました。しかも、その妻について詳細に覚えているのです。写真まで持っているとか」
朔夜と老師は顔を見合わせた。
「他にも、子供時代に飼っていたはずのない犬の思い出を語る人、実際には参加していない学校行事の話をする人...枚挙にいとまがありません」
老師は立ち上がり、書棚から古い書物を取り出した。
「記憶の人工生成...まさか、この技術が悪用されているとは」
「老師、それは一体」
「記憶番人の中でも禁忌とされている技術だ。本来は記憶を失った人を救うために開発されたものだが、悪用すれば人の心を意のままに操ることができる」
朔夜の胸に怒りがこみ上げてきた。記憶は人の魂そのもの。それを偽造するなど、許されることではない。
「誰がこんなことを」
「分からない。だが、これほど大規模に偽記憶を植え付けるには、相当な力を持つ者でなければ不可能だ」
老師は朔夜を見つめた。
「朔夜、お前に頼みがある。偽記憶を見分ける技術を身につけてもらいたい」
「どのようにすれば」
「まず、本物の記憶の特徴を理解することだ。本物の記憶には必ず感情の残滓がある。喜び、悲しみ、怒り...様々な感情が記憶に刻まれている。しかし偽記憶は人工的に作られたため、感情の深度が浅い」
老師は先ほどの写真を再び朔夜に差し出した。
「もう一度、今度は感情に注目して映してみてくれ」
朔夜は集中し、影絵を浮かび上がらせる。今度は記憶の中の感情を探るように意識を向けた。すると、確かに感じられた。表面的な楽しさの裏に、空虚な何かが潜んでいる。
「分かりました。この記憶には、深い感情がありません。まるで...」
「演技をしているかのような薄っぺらさがあるだろう?」
朔夜は頷いた。
「さらに、偽記憶には別の特徴がある。複数の記憶の断片を組み合わせて作られることが多いため、よく観察すると継ぎ接ぎの跡が見える」
言われて見直すと、確かに影絵の中で微妙に光の質が変わる箇所があった。まるで別々の記憶を無理やり繋ぎ合わせたかのように。
「これが偽記憶の証拠ですね」
「その通りだ。そして最も重要なのは」老師の声が低くなった。「偽記憶の奥底には、必ずそれを作った者の意図が隠されている」
朔夜は影絵をより深く探った。すると、記憶の最奥で何かが蠢いているのを感じた。冷たく、悪意に満ちた何か。
「老師、これは」
「記憶を作った者の意志だ。おそらく、人々に平穏な過去を植え付けることで、現在の苦痛から目を逸らさせようとしている」
紬が震え声で言った。
「そのような行為は、記憶番人として決して許してはならないことです」
「だが、これを行った者の目的は何だろう」朔夜は考え込んだ。「人々を苦痛から救おうとしているのか、それとも」
「操ろうとしているのか、だな」老師は厳しい表情を浮かべた。「いずれにせよ、偽りの記憶で人を欺くことは正義ではない。真実と向き合ってこそ、人は成長できるのだから」
朔夜は立ち上がった。
「この技術を完全に習得します。そして、偽記憶を植え付けられた人たちを救いましょう」
「待て、朔夜」老師が制止した。「偽記憶の除去は非常に危険だ。下手をすれば、本物の記憶まで傷つけてしまう可能性がある」
「それでも、やらなければなりません」
朔夜の決意は揺らがなかった。記憶は人の魂の宝物。それを偽物で汚されることなど、絶対に許せない。
「分かった」老師は深く息を吸った。「だが、まずは基礎をしっかりと身につけろ。焦りは禁物だ」
その時、店の外から異様な気配が漂ってきた。朔夜と紬は同時に振り返る。
「この気配は」紬が身を強ばらせた。
「忘却獣...いえ、違います」朔夜は首を振った。「もっと巧妙で、狡猾な何かです」
窓の外を見ると、街を歩く人々の様子がおかしい。皆、うつろな表情で同じ方向に向かって歩いている。まるで操り人形のように。
「偽記憶に侵された人たちが、何かに呼ばれている」老師の声に緊張が走った。
朔夜は拳を握りしめた。偽記憶を作り出した黒幕が、ついに正体を現そうとしているのか。
「行きましょう、紬さん」
「はい、朔夜様」
二人が店を出ようとした時、老師が声をかけた。
「朔夜、忘れるな。偽物がどれほど巧妙でも、本物の記憶には敵わない。お前の中にある真実の記憶を信じろ」
朔夜は振り返って頷いた。そして紬と共に、異様な気配に包まれた街へと足を向けた。偽りの記憶に操られた人々の先に、一体何が待ち受けているのか。朔夜の心に、新たな戦いへの覚悟が芽生えていた。