慎太郎を見送った後、想起堂には静寂が戻っていた。夕陽が店内を橙色に染める中、朔夜は一人、影絵装置の前に座り込んでいた。少年の記憶を癒せたという安堵感はあったが、胸の奥に重い石のような不安が沈んでいる。
椿野老師は奥の部屋で古書の整理をしており、紬は明日の守護の儀式のため実家に戻っていた。一人きりの静寂の中で、朔夜は自分の影と向き合っていた。
「考え込んでおられますね」
突然響いた声に、朔夜の背筋が凍った。振り返ると、店の入り口に黒羽憂が立っていた。月光を背に受けたその姿は、まるで夜そのものが人の形を取ったかのように美しく、そして不気味だった。
「黒羽憂……」
朔夜は立ち上がり、憂を睨んだ。だが憂は敵意を見せることなく、ゆっくりと店内に足を踏み入れた。
「ご安心を。今夜は戦いに来たわけではありません」憂の声は驚くほど穏やかだった。「あなたと話がしたくて参りました」
「話?」
「そうです。あなたという人を、もう少し理解したいのです」
憂は朔夜から適度な距離を保ったまま、影絵装置を見回した。その瞳には興味深そうな光が宿っている。
「先日の少年の件、見事でした」憂は静かに言った。「あなたの影絵は確かに記憶を癒している。それは認めましょう」
「それなら……」
「ですが」憂は朔夜の言葉を遮った。「癒すということは、同時に縛り付けるということでもある。あなたはそれを理解しておられますか?」
朔夜は困惑した。憂の言葉の意味が掴めない。
「記憶というものは、時として人を苦しめます」憂は装置に近づき、その繊細な機構を見つめた。「辛い記憶、悲しい記憶、後悔に満ちた記憶。そうした記憶から解放されることこそが、真の救いではないでしょうか」
「それは違う」朔夜は強く否定した。「記憶は辛くても、それがその人を形作っている。記憶を奪うことは、その人の存在そのものを否定することだ」
「本当にそうでしょうか?」憂の瞳が朔夜を捉えた。「あなた自身、記憶に苦しんでおられるのではありませんか?」
朔夜の胸が締め付けられた。憂の言葉は核心を突いていた。
「私も昔は、あなたと同じように考えていました」憂は遠い目をして呟いた。「記憶は大切なもの、守るべきもの、癒すべきものだと。しかし……」
憂の表情に、一瞬だけ深い悲しみが浮かんだ。
「記憶によって壊れてしまった人を、あまりにも多く見てきました。過去に囚われ、前に進めずにいる人々を。そうした人たちを見ていると、記憶とは果たして本当に必要なものなのかと疑問に思うのです」
「それでも」朔夜は拳を握りしめた。「記憶があるからこそ、人は成長できる。過ちを繰り返さないでいられる。記憶を失えば、確かに苦痛からは逃れられるかもしれないが、それは生きることを放棄するのと同じだ」
「興味深い考えですね」憂は微笑んだ。「では、あなたは自分のすべての記憶を受け入れておられるのですか? 辛い記憶も、忘れたい記憶も、すべてを」
朔夜は答えられなかった。自分の中にも、確かに忘れてしまいたい記憶がある。両親を失った日の記憶、自分の能力のせいで傷ついた人たちの記憶。
「私は決して、記憶を無差別に破壊しているわけではありません」憂は続けた。「選択を与えているのです。記憶と共に生きるか、記憶から解放されるか。その選択を」
「選択? あなたは人々に選択肢など与えていない。一方的に記憶を奪っているだけだ」
「それは誤解です」憂の声に少しだけ感情が込もった。「私の忘却獣は、本当に忘れたいと願う記憶にしか反応しません。心の奥底で、その記憶から解放されたいと願っている人にだけ」
朔夜は愕然とした。もしそれが本当なら……
「慎太郎くんの件も、彼自身が無意識に望んだことなのです」憂は静かに説明した。「転校への不安、新しい環境への恐怖。それらから逃れたいと心の底で願っていた」
「だからといって、記憶を奪って良い理由にはならない」
「では、あなたは彼に辛い記憶と向き合い続けることを強いるのですか? 記憶の名の下に」
朔夜は言葉に詰まった。憂の論理には確かに一理ある。だが、それでも納得できない何かがあった。
「記憶は」朔夜は震える声で言った。「確かに人を苦しめることもある。でも、それと同じくらい人を支えてもくれる。大切な人との思い出、乗り越えた困難の記録、成長の証。そうした記憶まで奪う権利は、誰にもない」
「美しい理想論ですね」憂は悲しそうに微笑んだ。「ですが、現実はそう単純ではありません。記憶の重みに押し潰されそうになっている人々を、あなたはどう救うのですか? 影絵で癒すと仰るかもしれませんが、それは根本的な解決になるでしょうか?」
朔夜は答えに窮した。確かに、自分の影絵は記憶を癒すことはできても、記憶そのものを変えることはできない。一時的な癒しに過ぎないのかもしれない。
「私は」憂は窓の外を見つめた。「かつて記憶の重みで壊れそうになった人を知っています。その人を救いたい一心で、この道を選びました」
憂の横顔に、深い孤独と悲しみが浮かんでいた。朔夜は初めて、憂という人間の内面を垣間見た気がした。
「その人は」朔夜は恐る恐る尋ねた。「どうなったんですか?」
「救えませんでした」憂の声は消え入りそうに小さかった。「記憶の重みに耐えきれず、この世を去ってしまいました。もし、その時の私に今の力があったなら……」
店内に重い沈黙が流れた。朔夜は憂の動機を理解した。だが、それでも受け入れることはできなかった。
「あなたの気持ちは分かります」朔夜は静かに言った。「でも、その人が本当に望んでいたのは、記憶を失うことではなく、記憶と共に生きる力だったのではないでしょうか」
憂は振り返り、朔夜を見つめた。その瞳に、一瞬だけ迷いの色が浮かんだ。
「記憶と共に生きる力……」憂は呟いた。「そんなものが本当に存在するとお思いですか?」
「存在します」朔夜は確信を込めて答えた。「僕自身がそうだから。辛い記憶も含めて、すべてが今の僕を作っている。記憶があるからこそ、僕は他人の痛みを理解できる」
憂は長い間、朔夜を見つめていた。やがて、小さくため息をついた。
「あなたという人は、本当に興味深い」憂は言った。「いずれ、どちらが正しいかが分かる時が来るでしょう。その時まで……」
憂は踵を返し、出口に向かった。
「待って」朔夜は呼び止めた。「あなたの大切な人の記憶を、僕に見せてもらえませんか? もしかしたら、影絵で何かできるかもしれない」
憂は足を止めたが、振り返らなかった。
「その記憶は、既に私の中にはありません」憂は静かに答えた。「忘却獣に託しました。私自身の手で」
朔夜は愕然とした。憂は自分の記憶さえも犠牲にしていたのだ。
「それでは……」
「さようなら、夕凪朔夜」憂は店を出て行った。「次に会う時は、敵としてです」
朔夜は一人残され、深い思考の渦に沈んだ。憂との対話は、記憶の在り方について新たな疑問を投げかけていた。