田島老人との出会いから三日が過ぎた深夜のことだった。朔夜は古書店の奥で、いつものように影絵の練習をしていた。ろうそくの炎が揺らめき、壁に踊る影がいくつもの形を作っては消えていく。
その時だった。
突然、壁の影の一つがぴくりと動いた。朔夜の手の動きとは無関係に。
「……?」
朔夜は手を止めた。しかし壁の影は止まらなかった。それどころか、ゆらりと壁から剥がれ落ちるように立体化し始めたのだ。
影が形を成していく。それは先日映し出した田島老人の記憶の一部——戦時中の少年の姿だった。しかし、その影の少年は朔夜の記憶にあるものとは異なっていた。悲しみに暮れているはずなのに、なぜか笑みを浮かべている。
「これは一体……」
朔夜が呟いた時、影の少年がこちらを振り返った。暗い眼窩の奥で、何かが光っているような気がした。そして次の瞬間、影の少年は窓から外へと飛び出していってしまった。
朔夜は慌てて窓を開けて外を見渡したが、夜闇に紛れて影の行方は分からなくなっていた。
翌朝、椿野老師の元へ報告に向かおうとしていた朔夜の元に、紬が慌てた様子でやってきた。
「朔夜さん、大変なことが起きております」
紬の顔は青ざめていた。
「霞ヶ丘市内で、奇妙な現象が報告されているのです。昨夜から、街の至る所で影が勝手に動き回っているという目撃情報が相次いでおります」
朔夜の心臓が跳ね上がった。まさか。
「どのような影が?」
「戦時中の服装をした少年の影が、空襲跡地とされる場所で踊り狂っていたり、古い民家の庭で笑い声をあげていたりと……まるで生きているかのように振る舞っているのです」
朔夜の脳裏に、昨夜見た影の少年の笑顔が蘇った。間違いない。あの影が暴走しているのだ。
「紬、椿野老師のところへ行こう。急いで」
二人は急いで古書店へと向かった。椿野老師は既に事態を察知していたようで、古い文献を広げて何かを調べていた。
「朔夜よ、やはりお前の影絵が関わっておるのか」
「はい。昨夜、田島さんの記憶の影が勝手に動き出して……」
「ふむ」老師は顎に手を当てて考え込んだ。「影絵に魂が宿る現象は、古い文献にも記載がある。特に強い感情を持った記憶や、長い間抑圧されていた記憶ほど、独立した意識を持ちやすいとされておる」
「独立した意識?」
「そうじゃ。お前が映し出した田島老人の記憶——それは八十年もの間、心の奥底に閉じ込められていた記憶じゃった。その記憶が解放されたとき、あまりにも強いエネルギーを持っていたために、影として独立してしまったのじゃろう」
紬が不安そうに口を開いた。
「それで、その影は一体何をしようとしているのでしょうか」
「おそらく」老師の表情が曇った。「元の記憶とは異なる行動を取ろうとしているのじゃろう。抑圧されていた感情、表に出ることのできなかった想い——それらが影として現実に現れているのじゃ」
朔夜は拳を握りしめた。自分の能力が制御を失い、街に混乱をもたらしている。創造者としての責任が重くのしかかってきた。
「俺が、なんとかしなければ」
「朔夜さん」紬が心配そうに見つめた。「一人で抱え込まないでください。わたくしも一緒に——」
その時、店の扉が勢いよく開いた。田島老人が息を切らして駆け込んできたのだ。
「朔夜くん!大変なことになっている!」
老人の顔は真っ青だった。
「わしの記憶の中の少年が……あの子が街中で暴れ回っているというじゃないか。これはわしのせいじゃ。わしが記憶の解放なんて求めたせいで……」
「田島さん、落ち着いてください」朔夜は老人の肩に手を置いた。「責任は俺にあります。俺の能力の制御が甘かったんです」
しかし田島老人は首を振った。
「いや、わしが理解していなかったのじゃ。あの子——戦争で死んでいった弟は、本当は戦いたくなんてなかった。お国のために死ぬことを美徳だなんて思いたくなかった。ただ生きていたかった、笑っていたかった……そんな想いを、わしは八十年間も押し込めてきたんじゃ」
老人の声が震えていた。
「だから影になったあの子は、生きていたときにできなかった『笑うこと』をしているんじゃないのかね」
その言葉に、朔夜ははっとした。影の少年があの時浮かべていた笑顔。それは悲しみではなく、長い間封印されていた『生きる喜び』の表現だったのかもしれない。
「でも、このまま放置するわけにはいきません」紬が言った。「影が実体化して街を徘徊するなんて、普通の人々にとっては恐怖でしかありません」
椿野老師が立ち上がった。
「朔夜よ、お前には創造者としての責任がある。しかし、それは影を消去することではない。影と向き合い、対話し、共存の道を見つけることじゃ」
「対話……ですか?」
「そうじゃ。影は記憶の一部。ならば、記憶と向き合うように、影とも向き合えばよい」
朔夜は深く息を吸った。確かに、影を力ずくで消去するのは簡単かもしれない。しかし、それでは田島老人の記憶、そして影となった少年の想いを再び封印することになってしまう。
「分かりました。影を探します。そして、話してみます」
田島老人が朔夜の手を握った。
「わしも一緒に行かせてくれ。あの子はわしの弟の記憶じゃ。最後まで責任を持たねば」
「わたくしも同行いたします」紬も決意を込めて言った。
夕刻、三人は影の少年の目撃情報が最も多い旧市街へと向かった。古い建物が立ち並ぶ一角で、確かに人々がざわめいているのが聞こえる。
角を曲がった時、朔夜は息を呑んだ。
そこには影の少年がいた。しかし一人ではなかった。周囲には、他にも様々な時代の影たちが集まっていた。明治時代の着物を着た女性、昭和初期の学生服を着た青年、戦後の洋装をした子供たち——まるで時代を超えた影たちの集会のようだった。
「あれは……」朔夜は呟いた。
「朔夜さんが今まで映し出してきた記憶の影たちです」紬が静かに言った。「田島さんの記憶の影に呼応するように、他の影たちも実体化してしまったのでしょう」
影たちは皆、どこか寂しそうでありながら、同時に解放感に満ちた表情をしていた。長い間封印されていた感情たちが、ついに形を得たのだ。
朔夜は一歩前に出た。創造者として、彼らと向き合わなければならない。
「みんな」朔夜は静かに呼びかけた。「話をしよう」
影たちがゆっくりと朔夜の方を向いた。その瞬間、朔夜は感じた。彼らが何を求めているのか、何を伝えようとしているのか——それは次の瞬間、予想もしない形で明かされることになる。