忘却獣を浄化した後の静寂は、朔夜の心に重く沈んでいた。紬との新たな継承術により力を取り戻したとはいえ、黒羽憂の影が空に現れた光景は脳裏に焼き付いて離れない。
「朔夜様、お疲れでございましょう。少し休まれては」
紬の優しい声に、朔夜は我に返った。二人は椿野老師の古書店へと戻り、奥の居間で向かい合って座っている。薄暗い部屋に差し込む夕日が、書架の隙間から細い光の筋を作っていた。
「いや、大丈夫だ。それより」朔夜は紬の顔を見つめた。「さっきの継承術で、俺の記憶も君に流れ込んだだろう? 何か気になることはなかったか」
紬は少し考え込むような仕草を見せた。「確かに、朔夜様の記憶の奥に、何か霞がかったような部分を感じました。まるで意図的に隠されているかのような」
その時、奥から椿野老師が現れた。普段の飄々とした様子とは違い、どこか重々しい空気を纏っている。手には古い革装丁の書物を抱えていた。
「二人とも、話がある。特に朔夜、君にとっては重要な話だ」
椿野老師は書物を卓上に置くと、深いため息をついた。表紙には見慣れない文字で何かが刻まれている。
「これは記憶番人一族に代々伝わる血統記録だ。紬嬢の一族が長年守り続けてきた秘伝の書物でもある」
「血統記録?」朔夜の声に緊張が滲んだ。
「ああ。そして君の出生について、ようやく真実を話すべき時が来た」椿野老師は書物のページを開いた。古い羊皮紙に、家系図のような図表が描かれている。「朔夜、君の母親の名前は?」
「夕凪螢。でも、俺が幼い頃に亡くなって、詳しいことは何も」
「螢さんは、実は記憶番人の一族出身だったんだ」
朔夜の息が止まった。紬も驚いた表情で椿野老師を見つめている。
「し、しかし老師。それでは朔夜様は」
「そう、朔夜は記憶番人の血を引いている。だが、それだけではない」椿野老師は別のページをめくった。そこには二つの家系図が交差するように描かれていた。「朔夜の父親は、影絵師の一族の末裔だった」
部屋の空気が張り詰めた。朔夜は自分の鼓動が激しくなるのを感じる。
「影絵師と記憶番人の血が混じった存在。それが君だ、朔夜」
「待ってくれ」朔夜は頭を抱えた。「影絵師の一族? そんな一族が存在するのか?」
椿野老師は重々しく頷いた。「古代より記憶番人と表裏一体の関係にあった一族だ。記憶番人が記憶を守護するのに対し、影絵師は記憶を映し、伝承する役割を担ってきた。しかし」
老師の声が沈んだ。
「両一族の交わりは長い間、禁忌とされていた。なぜなら、その血が混じることで生まれる子供は、通常の能力者を遥かに超える力を持つことが予言されていたからだ」
朔夜は立ち上がった。足元がふらつく。「禁忌の恋、だったのか。俺の両親は」
「螢さんは一族の掟を破り、愛を選んだ。そして君を産んだ後、その代償として命を失った」椿野老師の声に深い悲しみが込められていた。「君の父親もまた、一族から追放され、行方不明となった」
紬が立ち上がり、朔夜の手を握った。「朔夜様」
「だから俺は、こんな力を」朔夜は自分の手を見つめた。「だから俺は、他の誰とも違う能力を持っているのか」
「君の力は確かに特別だ。影絵師の記憶投影能力と、記憶番人の守護の力。両方の血が君の中で共鳴している」
椿野老師は最後のページを開いた。そこには古い予言が記されていた。
「『禁忌の血より生まれし者、光と影を繋ぐ者となりて、記憶の真なる意味を世に示さん。されど、その力は諸刃の剣なり。破壊をもたらすか、救済をもたらすか、選択は本人に委ねられる』」
朔夜の中で、何かが崩れ落ちていく音がした。今まで漠然と感じていた自分への違和感、他者との距離感、そして常に心の奥にあった孤独感。全てがこの真実と繋がっていく。
「俺は、存在してはいけない子供だったのか」
「違います」紬の声が響いた。「朔夜様の両親は、愛のために全てを賭けられた。それは美しいことでございます」
椿野老師も頷いた。「螢さんは最期まで君への愛を貫いた。私は彼女の友人として、その愛を見続けてきた」
朔夜は窓の外を見つめた。霞ヶ丘市の街並みが夕日に染まっている。この街で、自分と同じような能力者たちが日々を送っている。だが、自分だけが異なる出自を持つ存在だった。
「黒羽憂は、このことを知っているのか?」
「恐らく。彼の目的が君である可能性が高まった」椿野老師の表情が厳しくなった。「禁忌の血を引く者の力は、記憶の世界に大きな影響を与える。それを利用しようとする者がいても不思議ではない」
紬が朔夜の手を強く握った。「でも朔夜様は、お一人ではありません。私が、そして老師もおります」
朔夜は二人を見つめた。混乱と戸惑いの中で、それでも彼らの温かさが心に届く。
「俺は、どうすればいいんだ? この血が、この力が、正しい道に向かうかどうかも分からない」
「それを決めるのは君自身だ」椿野老師が立ち上がった。「螢さんが最期に私に託した言葉がある。『朔夜には、自分の道を選ぶ権利があります。どうか、その選択を見守ってください』と」
夕日が部屋を完全に染め上げた。朔夜は自分の影が壁に映っているのを見つめる。普通の影のようでいて、その中に無数の記憶の断片が蠢いているのが分かる。
これが自分の正体だった。禁忌の恋から生まれた、二つの血が混じり合う存在。
突然、街の向こうから不吉な気配が立ち上がった。黒い霧のようなものが空に渦巻いている。
「来たか」椿野老師が呟いた。
窓の外を見つめながら、朔夜は拳を握りしめた。出生の真実が明らかになった今、自分が何者であるかは理解した。だが、これからどう生きるかは、まだ見えない。
黒羽憂の影が再び空に現れる中、朔夜は新たな決意を胸に宿し始めていた。