夜明け前の霞ヶ丘市を、異様な静寂が支配していた。街灯の光が青白く震え、普段なら聞こえるはずの早朝の物音が一切消えている。朔夜は古書店の二階から窓の外を見下ろし、胸の奥で不吉な予感がざわめくのを感じた。

「朔夜殿」

 振り返ると、紬が階段を上がってくるところだった。いつもの凛とした表情に、わずかな動揺の色が浮かんでいる。

「何か異変を感じます。街全体に、記憶を食い荒らす気配が満ちて——」

 紬の言葉が途切れた瞬間、遠くから低い唸り声が響いてきた。それは今まで聞いたことのない、巨大で重厚な音だった。朔夜は慌てて窓を開け放ち、夜空を見上げる。

 そこに浮かんでいたのは、朔夜の想像を遥かに超える忘却獣だった。

 体長は優に十メートルを超え、漆黒の毛玉のような体から無数の触手が蠢いている。だが何より朔夜の心を凍りつかせたのは、その眼だった。深い蒼色に輝く巨大な眼が、まるで宝石のように美しく、そして残酷に街を見下ろしている。

「蒼い眼の忘却獣……」

 朔夜は呟いた。初めて忘却獣と遭遇した時のことが、鮮明に蘇る。あの小さな忘却獣も同じ蒼い眼をしていた。しかし目の前の化け物は、まるで別次元の存在だった。

「これが、憂さんの創り出した最強の忘却獣……」

 巨大忘却獣が触手を街に向かって伸ばすと、接触した建物から光の粒子がゆらゆらと立ち上った。それは記憶の欠片だった。建物に刻まれた歴史、そこに住む人々の思い出、全てが吸い取られていく。

「急がねばなりません」紬が凛とした声で言った。「このままでは霞ヶ丘市の全ての記憶が——」

 その時、街のあちこちから悲鳴が上がった。早起きの住民たちが、自分の記憶を失い始めていることに気づいたのだ。

「私の名前が……思い出せない」

「ここはどこ? 私は何をしていたの?」

「誰か、誰か助けて……」

 混乱の声が次々と響く中、朔夜は拳を強く握りしめた。これまで多くの忘却獣と対峙してきたが、これほど大規模で、これほど絶望的な状況は初めてだった。

「朔夜殿、どうなさいますか」

 紬の問いかけに、朔夜は振り返った。彼女の瞳には不安が宿っているが、それでも朔夜を信じる意志が揺らいでいない。その眼差しが、朔夜の心に小さな炎を灯した。

「行くしかない」朔夜は静かに答えた。「あの忘却獣を止めないと、この街の全てが失われてしまう」

「ですが、あれほど巨大な相手に、私たちだけで立ち向かえるでしょうか」

 確かに紬の言う通りだった。朔夜の影絵の力も、紬の記憶守護の術も、あの化け物の前では小さすぎる。だが、諦めるわけにはいかなかった。

「憂さんは、なぜあんな忘却獣を作ったんだろう」

 朔夜は巨大忘却獣を見上げながら呟いた。未来視で見た憂の姿を思い返す。助けを求めていた彼の表情、記憶番人一族から追放された過去、そして最後に見せた悔恨の涙。

「もしかしたら、憂さん自身もあの忘却獣に困っているのかもしれない」

「と、申されますと?」

「あの未来視で見た憂さんは、助けを求めていた。もしかしたら、あの忘却獣は憂さんの手に負えないほど強くなってしまったのかも」

 その時、街の向こうから椿野老師の声が響いてきた。拡声器を使っているらしく、街全体に届く大きさだった。

「朔夜よ、紬よ、聞こえるかね。あの忘却獣は記憶を食べ続けることで成長し続けている。時間が経てば経つほど強くなってしまう。今しか止める機会はないぞ」

 老師の警告を聞いて、朔夜は決意を固めた。迷っている時間はない。

「紬、一緒に来てくれる?」

「無論です」紬は即座に答えた。「朔夜殿がいるところが、私の戦場ですから」

 二人は古書店から飛び出し、巨大忘却獣に向かって駆けた。街は既にパニック状態で、記憶を失った人々が呆然と立ち尽くしている。中には自分の家の前で困惑している老人や、子供の名前を呼びながら泣いている母親もいた。

 朔夜の胸に怒りがこみ上げた。記憶は人の宝物だ。それを理由もなく奪い取るなんて、絶対に許せない。

「影絵術、展開」

 朔夜は走りながら影絵を発動した。周囲の街灯から影が集まり、巨大な鳥の形を成していく。影の鳥は空に舞い上がり、巨大忘却獣に向かって急降下した。

 しかし、忘却獣の触手が軽々と影の鳥を絡め取り、そのまま消し去ってしまった。

「くそっ」

 朔夜は歯噛みした。力の差が歴然としすぎている。だが、諦めるわけにはいかなかった。

「朔夜殿、私が記憶の守護結界を張ります。その間に、何か方法を」

 紬が両手を合わせ、祈るような仕草を見せた。彼女の周囲に淡い光の膜が広がり、忘却獣の記憶吸収を一時的に遮っていく。

 だが、結界は巨大忘却獣の触手に触れるや否や、ひび割れ始めた。

「持ちません……!」

 紬の顔が苦痛に歪む。彼女一人の力では、あの化け物を相手にするには限界があった。

 その時、朔夜の脳裏に未来視の映像が蘇った。憂が助けを求めていた場面。そして、その背景に映っていた蒼い眼の忘却獣。

「もしかしたら……」

 朔夜は新たな可能性に思い当たった。あの忘却獣は憂の意図を超えて暴走しているのではないか。だとすれば、憂自身がその制御を失っているかもしれない。

「紬、あの忘却獣の中に憂さんがいるかもしれない」

「え?」

「忘却獣に取り込まれているんだ。だから助けを求めていたんじゃないだろうか」

 まさにその時、巨大忘却獣の中心部から、かすかに人影が見えた気がした。蒼い光に包まれた、憂らしき影が。

 朔夜の心に、新たな決意が生まれた。戦うのではない。救うのだ。憂を、そして霞ヶ丘市の全てを。

影絵師と零れ落ちる記憶

41

最後の忘却獣

夜想 遥

2026-04-30

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第41話 最後の忘却獣 - 影絵師と零れ落ちる記憶 | 福神漬出版