想起の間の奥深くで、黒羽憂は膝をついていた。浄化の光に包まれた彼の姿は、先ほどまでの冷酷さを失い、まるで壊れやすい人形のように見えた。朔夜と紬は互いを支え合いながら、憂を見下ろしている。
「もう、終わったのですね」
紬が静かに呟いた。その声には勝利の喜びよりも、深い哀しみが滲んでいる。朔夜もまた、複雑な感情を抱いていた。憂を倒したという達成感よりも、彼の中に残る深い絶望を感じ取っていたからだ。
憂が顔を上げる。その瞳には、もはや憎悪の炎は燃えていない。代わりに、長い間封印されていた何かが溢れ出そうとしていた。
「私の記憶が……戻ってくる」
憂の口から漏れた言葉に、朔夜は身を乗り出した。記憶を操る能力者として、彼は憂の内側で何かが解放されつつあることを直感していた。
「封印されていた記憶?」
「そうだ。私が自ら封じ込めた、最も大切で、最も辛い記憶が……」
憂の体が震え始める。まるで長い間凍りついていた氷が溶け出すように、彼の表情に様々な感情が浮かんでは消えていく。
「朔夜様、これは……」
紬が不安そうに呟く。朔夜も感じていた。憂の周囲に、膨大な記憶の断片が渦巻いているのを。それらは長い間圧縮され、歪められ、痛みと共に封印されていたものたちだった。
突然、憂が両手で頭を抱えた。
「あああ……彼女の顔が、声が、すべてが戻ってくる」
その瞬間、憂の周囲の空間が歪んだ。解放された記憶の力が、影絵として空中に投影され始める。朔夜の能力とは異なる、より生々しく、より痛々しい映像が宙に踊った。
最初に現れたのは、一人の女性の姿だった。長い黒髪を持つ美しい人で、優しい笑顔を憂に向けている。二人は手を取り合い、桜の舞い散る小径を歩いていた。
「雪乃……」
憂が愛おしそうに呟く。朔夜と紬は息を呑んだ。これまで見せたことのない、憂の本当の顔がそこにあった。
映像は続く。二人の幸せな日々が次々と映し出される。雪乃と名付けられた女性は、憂にとってかけがえのない存在だったことが分かる。彼女の笑い声、彼女の温もり、彼女への愛情─すべてが鮮明に蘇っていく。
「美しい方ですね」
紬が小さく呟いた。朔夜も頷く。しかし同時に、この記憶がなぜ封印されていたのか、嫌な予感を抱いていた。
やがて映像が変わった。雪乃の表情に困惑が浮かぶ。彼女は憂を見つめながら、何かを必死に思い出そうとしているようだった。
「あなたは……誰でしたっけ?」
その言葉に、憂の顔が絶望に歪む。
「忘却獣に襲われたのだ」憂が苦しそうに説明する。「雪乃の記憶を、私との思い出を、すべて食い尽くされてしまった」
映像は残酷な現実を映し続ける。日に日に憂のことを忘れていく雪乃。最愛の人に見つめられながら、まるで赤の他人を見るような視線を向けられる憂の絶望。
「私は記憶を取り戻そうと必死だった。あらゆる手段を試した。だが……」
最後の映像が現れる。雪乃が憂の前から立ち去っていく後ろ姿。振り返ることもなく、まるで憂など最初から存在しなかったかのように。
「結局、彼女は別の人と結ばれ、幸せになった。私のことなど、まったく覚えていないまま」
憂の声が震える。朔夜は胸が締め付けられるような痛みを感じた。愛する人に忘れられる苦しみ。それは想像を絶するものだった。
「それで、記憶というものが憎くなったのですね」
紬が理解を込めて言う。憂は力なく頷いた。
「記憶さえなければ、こんな苦しみを味わうこともない。忘れることができれば、痛みからも解放される。だから私は、すべての記憶を消去しようとした」
「でも、それは間違っている」
朔夜が静かに言った。憂が驚いたように彼を見上げる。
「記憶は確かに痛みをもたらすこともある。でも、君の雪乃さんへの愛情も、記憶があったからこそ生まれたものじゃないか」
「愛情など、苦痛でしかない」
「本当にそう思うか?」
朔夜は憂の前に歩み寄った。そして、自分の影絵の能力を静かに発動させる。ただし、今度は憂を攻撃するためではない。
「君の記憶を、もう一度見てみよう。今度は封印された痛みではなく、その奥にある本当の想いを」
朔夜の影絵が、憂の記憶に優しく触れる。すると、先ほどとは異なる映像が浮かび上がった。雪乃との出会いの瞬間。初めて手を繋いだ時の温もり。彼女の寝顔を見つめる憂の幸福に満ちた表情。
「これらの記憶は、たとえ雪乃さんが忘れてしまっても、君の中では永遠に生き続けている」
朔夜の言葉に、憂の瞳に涙が浮かぶ。
「でも、彼女はもういない……」
「いるよ」朔夜は微笑んだ。「君の記憶の中に、永遠に」
紬も歩み寄ってくる。
「黒羽様。記憶とは、決して独りでに存在するものではありません。誰かを想う心があってこそ、記憶は意味を持つのです」
「君が雪乃さんを覚えている限り、彼女との愛は消えることはない」朔夜が続ける。「それこそが、記憶の本当の力なんだ」
憂は泣いていた。長い間封印していた感情が、堰を切ったように溢れ出している。
「私は……私は間違っていたのか」
「間違っていたのではない」朔夜が優しく言う。「ただ、痛みに負けそうになっただけだ。でも君は強い。その証拠に、最も大切な記憶を完全に消去することはできなかった」
想起の間に静寂が戻る。憂の記憶の影絵は徐々に薄れ、平和な空気が流れ始めていた。
「朔夜様」紬が小さく呟く。「新たな気配を感じます」
朔夜も頷いた。遠くから、これまでとは異なる種類の脅威が近づいてくるのを感じていた。しかし今は、目の前の憂を救うことが先決だった。
「憂」朔夜が呼びかける。「一緒に来ないか。記憶を破壊するのではなく、守る側に」
憂が顔を上げた。その瞳には、久しぶりに希望の光が宿っている。
そのとき、想起の間の奥底から、今まで聞いたことのない不気味な唸り声が響いてきた。三人は身構える。新たな戦いの始まりを予感させる音だった。