翌朝の青嵐食堂は、いつもより早い時間から慌ただしい空気に包まれていた。昨夜のアーサーとの語らいの余韻がまだ心に残る中、颯太は厨房で仕込みに取り掛かっていた。包丁を握る手に、以前とは違う確かな重みを感じている。
「お兄ちゃん、おはよう」
咲良の声が背後から聞こえ、颯太は振り返った。妹はいつものように明るい笑顔を浮かべているが、その瞳の奥に何か探るような光があることに気づく。
「おはよう、咲良。今日も早いな」
「最近のお兄ちゃんも早いよね。前は朝起きるのが苦手だったのに」
何気ない言葉だったが、颯太の手が一瞬止まった。確かに異世界の仲間たちと出会ってから、生活リズムは大きく変わっている。料理への情熱が戻ったことで、自然と早起きになったのは事実だった。
「そうかな。まあ、店の調子が良くなってきたから、気合いが入ってるのかも」
「それにしても、最近のお兄ちゃんって変わったよね」
咲良はエプロンを結びながら、遠慮がちに続けた。
「料理の腕が急に上がったし、なんだか前より自信に満ちてる。あの料理コンテストの件で落ち込んでたのが嘘みたい」
颯太は野菜を刻む手を止め、妹の方を向いた。咲良の表情は心配と好奇心が入り交じっている。
「良いことじゃないか。心配かけて悪かったな」
「それは嬉しいんだけど」
咲良は少し口ごもった。
「でも、急すぎない?それに最近、変なお客さんも多いし」
「変なお客さん?」
「ほら、あの白い髪の綺麗な女の子とか。すごく礼儀正しいんだけど、現代っ子にしては古風すぎるというか。それに、たまに一人で来る大柄な男性も、なんだか威厳がありすぎて普通じゃない感じがするの」
リリアとグランドのことを言っているのだと颯太は悟った。確かに二人とも、現代社会に溶け込んでいるとは言い難い。特にグランドは人間の姿をしていても、古代ドラゴンとしての威厳を隠しきれていない。
「個性的なお客さんが多いのは、下町の食堂らしくて良いじゃないか」
「それはそうだけど」
咲良は納得のいかない表情を浮かべた。
「でも、お兄ちゃんと話してる時の彼らの様子を見てると、まるで」
「まるで?」
「まるで、お兄ちゃんを師匠か何かのように慕ってるみたい。特にその大柄な男性は、お兄ちゃんの料理を食べる時の表情が、まるで神聖なものに触れるような感じで」
颯太は内心で冷や汗をかいた。グランドの颯太に対する敬意は、確かに普通の客と店主のそれを超えている。古代ドラゴンとしての長い生涯で初めて出会った「真の料理」への感動が、態度に表れすぎているのかもしれない。
「そんな大げさな」
「それに、奥の扉も気になってるの」
咲良の言葉に、颯太の心臓が跳ね上がった。
「奥の扉って、倉庫のこと?」
「そう。前は開けっぱなしにしてたのに、最近は鍵をかけてるよね。中で物音がすることもあるし」
確かに異世界への扉は厳重に管理している。リリアたちが来る時は、現代世界に人がいないことを確認してからだが、それでも完全に隠し通すのは難しい。
「ちょっと整理してるから、危険なものもあるんだ。心配しないで」
「お兄ちゃん」
咲良は真剣な表情になった。
「何か隠してない?私、お兄ちゃんの妹だから、変化にはすぐ気づくの。嬉しい変化だから文句を言うつもりはないけど、でも心配になる」
颯太は妹の真っ直ぐな眼差しに動揺した。咲良は小さい頃から観察力が鋭く、嘘を見抜くのが得意だった。管理栄養士として働いている今も、その洞察力は更に磨かれている。
「隠し事なんて」
「本当に?」
その時、奥の扉から小さな物音が聞こえた。颯太と咲良の視線が同時にそちらに向く。
「今、音がしなかった?」
「風じゃないか?古い建物だから、きしむことがあるんだ」
しかし、颯太には分かっていた。あれはリリアの足音だ。彼女は朝の散歩がてら、よく早い時間に訪れる。今日も来ているのだろう。
咲良は疑わしそうな表情を浮かべたが、それ以上追求はしなかった。代わりに、別の角度から話を切り出す。
「ねえ、お兄ちゃんの料理、本当に美味しくなったよね」
「ありがとう」
「でも、どうやって腕を上げたの?独学?それとも、どこかで修行でもした?」
颯太は答えに窮した。確かに彼の料理の腕は格段に上がっている。それは異世界の仲間たちとの出会いによって、料理への情熱と自信を取り戻したからだが、それを説明するわけにはいかない。
「色々と試行錯誤してるんだ。昔の基本に立ち返ったり、新しいアプローチを考えたり」
「そうなんだ」
咲良は頷いたが、完全に納得した様子ではない。
「でも、お兄ちゃんの料理を食べたあの白髪の女の子の反応、普通じゃなかったよ」
「普通じゃないって?」
「まるで、生まれて初めて美味しいものを食べたみたいな。でも、彼女くらいの年なら、色んな料理を食べてるはずよね?」
リリアの反応を思い出し、颯太は苦笑いを浮かべた。確かに彼女の感動は純粋すぎて、現代の若者らしくない。森で暮らしていた彼女にとって、颯太の料理は本当に初めての体験だったのだから当然だが、それを咲良に説明することはできない。
「人それぞれ、感動の仕方は違うから」
「それもそうだけど」
再び奥の扉から音がした。今度は明らかに足音だった。咲良の眉が上がる。
「やっぱり音がするよね?」
「ちょっと見てくる」
颯太は慌てて奥に向かった。扉の前に立ち、小声で呼びかける。
「リリア?」
「颯太さん?咲良さんもいらっしゃるのですか?」
扉の向こうからリリアの声が聞こえた。
「ああ、いるよ。少し待って」
颯太は厨房に戻り、咲良に向き合った。妹は腕を組んで、探るような視線を向けている。
「お兄ちゃん、今誰かと話してた?」
「いや、独り言だよ。最近の癖でさ」
「独り言にしては、返事が聞こえたけど?」
咲良の追及は的確で容赦がない。颯太は額に汗をかいた。
「そんなことないよ。きっと聞き間違いだ」
「本当に?」
その時、店の正面から鈴の音が響いた。朝の開店時間にはまだ早いが、誰かが入ってきたようだ。
「いらっしゃいませ」
颯太が振り返ると、そこには見覚えのない中年の男性が立っていた。スーツを着た紳士然とした人物だが、その目つきには何か鋭いものがある。
「青嵐食堂さんですね。評判を聞いて、一度伺いたいと思っていました」
「ありがとうございます。ただ、まだ開店前なので」
「そうですね。では、改めて営業時間に伺わせていただきます」
男性は軽く頭を下げたが、その視線は店内をしっかりと観察していた。特に、奥の扉の方向を気にしているように見える。
「失礼いたします」
男性が去った後、咲良は不安そうな表情を浮かべた。
「なんか変な人だったね」
「そうかな?普通のお客さんに見えたけど」
「でも、お店を見回す様子が、まるで何かを探してるみたいだった」
颯太も同じ印象を受けていた。あの男性には、単なる食事客とは違う目的がありそうだった。もしかすると、異世界との繋がりに関して何か感づいている人物かもしれない。
「気にしすぎじゃないか?」
「そうかもしれないけど」
咲良は首を振った。
「最近、お兄ちゃんの周りで不思議なことが多すぎる。心配になるの」
颯太は妹の肩に手を置いた。
「咲良、俺は大丈夫だ。確かに色々あるけど、悪いことじゃない。むしろ、料理への情熱を取り戻せて良かったと思ってる」
「それは分かるけど」
「信じてくれ。何か本当に心配なことがあったら、必ず相談する」
咲良は少し考えてから、小さく頷いた。
「分かった。でも、お兄ちゃん、一人で抱え込まないでよね」
「ああ、約束する」
颯太は微笑んだが、心の中では複雑な思いが渦巻いていた。咲良に異世界のことを話せる日は来るのだろうか。そして、その時まで秘密を守り通すことができるのか。
奥の扉から、再び小さな音が聞こえた。リリアがまだ待っているのだろう。颯太は時計を見上げ、これからの一日が長くなりそうだと予感した。