翌朝、颯太は昨夜の出来事が夢だったのではないかと疑いながら、おにぎりを二つ握って奥の扉の前に立っていた。朝日が差し込む食堂の中で、古い木の扉は相変わらず謎めいた存在感を放っている。
「やっぱり、開けてみるしかないよな」
颯太は深呼吸をして、ゆっくりと扉の取っ手に手をかけた。昨日と同じように、扉は重い音を立てて開き、そこには緑豊かな森の風景が広がっていた。鳥のさえずりと、どこか甘い花の香りが鼻をくすぐる。
一歩、また一歩と森の中に足を踏み入れる。昨日とは違う道を歩いているうちに、颯太は気がついた。完全に迷子になってしまったのだ。
「参ったな…」
見上げれば、木々の葉が空を覆い隠し、太陽の位置すらよく分からない。足元には苔むした石が点在し、時折見たこともない色とりどりの花が咲いている。美しい光景だが、現実逃避している場合ではなかった。
そんな時、前方の木陰で何かが動いているのを見つけた。近づいてみると、それは昨日出会った猫の耳を持つ少女だった。彼女は地面に座り込み、手に持った木の棒を振りながら、何やら集中している。
「あの、すみません」
颯太が声をかけると、少女はびくっと肩を震わせて振り返った。大きな緑の瞳が颯太を見つめ、頬がほんのりと赤く染まる。
「あ、あなたは…昨日の…」
「昨日は失礼しました。大河颯太と申します。えっと…迷子になってしまって」
少女は立ち上がると、スカートの裾を払いながら小さく会釈した。
「リリア・フォレストです。森の、魔法使いをしています」
魔法使い。颯太の目が、リリアの手に握られた木の棒に向けられる。よく見ると、それは美しい装飾が施された杖だった。
「魔法使い、ですか」
「はい。まだ見習いですけど…」
リリアは恥ずかしそうに杖を胸に抱えた。そのしぐさがあまりにも愛らしくて、颯太は思わず微笑んでしまった。
「それで、魔法の練習をされていたんですね」
「はい。でも、なかなか上手くいかなくて…」
リリアの視線が、颯太の服装に向けられる。昨日と同じように、現代の服装に対する興味深そうな表情を浮かべていた。
「その、変わった服装ですね。昨日も思ったのですが、どちらの国の方なのですか?」
「ええと…遠い、遠い国からです」
颯太は曖昧に答えながら、持参したおにぎりのことを思い出した。せっかく作ってきたのだから、お礼の意味も込めて分けてあげようか。
「あの、もしよろしければ…」
颯太が包みを取り出すと、リリアの猫の耳がぴんと立った。まるで何か美味しそうなものを察知したかのように。
「これ、おにぎりという食べ物なんですけど、よかったら一緒に食べませんか?」
「お、おにぎり?」
リリアの目が輝いた。颯太は包みを広げ、きれいに形を整えた塩おにぎりを見せる。海苔で巻いた三角形のそれは、シンプルだが美しい形をしていた。
「これは…何でできているのですか?」
「お米という穀物です。炊いて、塩で味付けして、海苔という海の植物で包んであります」
リリアは興味深そうに身を乗り出した。
「海の、植物?海って、本当にあるのですね」
「あります。とても広くて、青くて…」
颯太はリリアに一つ手渡しながら、彼女の純粋な好奇心に心が温かくなるのを感じた。
「いただいてもよろしいのですか?」
「もちろんです」
リリアは恐る恐るおにぎりを受け取ると、まずは匂いを嗅いでみた。猫の耳が微かに動く。
「いい香り…」
そして、小さく一口。
瞬間、リリアの表情が変わった。目を大きく見開き、頬が紅潮する。
「これは…!」
「どうですか?」
「美味しいです!こんな食べ物、初めてです!」
リリアの喜ぶ様子を見て、颯太の心に久しぶりに温かいものが宿った。自分の作った料理を美味しいと言ってもらえる喜び。それは、挫折してから忘れかけていた感情だった。
「このお米というものは、どうやって作るのですか?」
「水を張った田んぼという場所で栽培します。種から苗を育てて、それを植えて…」
颯太が説明すると、リリアは目を輝かせながら聞き入った。
「すごいです。魔法みたいです」
「魔法じゃありませんよ。人の手と、時間と、愛情をかけて育てるんです」
「愛情…」
リリアは小さくつぶやくと、もう一口おにぎりを食べた。
「颯太さんは、料理人さんなのですか?」
その質問に、颯太の表情がわずかに曇った。
「昔は、そうでした」
「昔は?」
「今は…少し、迷子になってしまって」
料理の道で迷子になってしまった。そんな自分の状況が、今この森で道に迷っていることと重なって見えた。
「私も、よく迷子になります」
リリアが優しく微笑んだ。
「でも、こうして出会えたのですから、きっと意味があるのだと思います」
彼女の言葉に、颯太は胸が熱くなった。この少女には、人の心を癒す不思議な力があるのかもしれない。
「リリアさんは、料理はされるのですか?」
「少しだけ。でも、とても下手で…魔法の方が得意です」
「どんな魔法を?」
「植物を育てる魔法です。でも、まだまだ未熟で…」
リリアが杖を振ると、近くの小さな花のつぼみがゆっくりと開いた。淡いピンクの花びらが美しい。
「すごいじゃないですか」
「これくらいしかできないんです。もっと大きな魔法を使えるようになりたいのですが…」
「でも、その魔法、料理に活かせそうですね」
「料理に?」
「新鮮なハーブや野菜を育てたり、食材を美味しく育てたり」
颯太の言葉に、リリアの目がさらに輝いた。
「そんなこと、考えたことありませんでした」
「料理と魔法、きっと相性がいいと思います」
二人は並んでおにぎりを食べながら、料理や魔法の話に花を咲かせた。リリアの人見知りも次第に和らぎ、颯太も久しぶりに心から楽しい時間を過ごしていた。
「颯太さん」
「はい?」
「また、お料理を教えていただけませんか?」
リリアの頬が薄く赤く染まっている。
「もちろんです。僕も、リリアさんの魔法を見せてもらいたいです」
「約束ですね」
そんな時、森の奥から低い唸り声が聞こえてきた。二人は反射的に身を寄せ合う。
「何の声でしょうか?」
「分かりません…でも、とても大きな生き物のような…」
唸り声は次第に近づいてくる。そして、木々の間から巨大な影が姿を現した。
古代ドラゴン、グランド。
昨夜、長老の家で見た影の正体だった。
「リリア嬢」
ドラゴンの深い声が森に響く。
「グランドさま」
リリアは慌てて立ち上がり、深々と頭を下げた。
「そちらの方は?」
グランドの金色の瞳が颯太を見据える。威厳に満ちたその視線に、颯太は身が�すくんだ。
「昨日お話しした、扉の向こうから来られた方です」
「ほう…」
グランドは颯太に近づくと、鼻を寄せて匂いを嗅いだ。
「面白い香りがするな」
「あ、これはおにぎりという…」
颯太が説明しようとした時、グランドの瞳が鋭く光った。
「その食べ物、我にも分けてくれぬか」