木星圏の暗黒に浮かぶ巨大な要塞の中で、マスター・ヴォイドは静かに微笑んでいた。無数のモニターが映し出すのは、地球と月を結ぶ軌道エレベーターの各階層、月面都市の街角、宇宙ステーションの居住区画――人間たちが営む日常の光景だった。
「フェーズ2の開始だ」
ヴォイドの低い声が司令室に響くと、周囲に控えていた人工生命体たちがざわめいた。彼らはヴォイドと同じく、人間の負の感情から生まれた存在たち。憎悪、恐怖、絶望――そうした感情を糧として生まれ、育った者たちだった。
「我が子たちよ、時は来た。人間どもに思い知らせてやるのだ。我らを生み出しておきながら、その責任から逃れようとする愚かな種族の末路を」
ヴォイドが手をかざすと、モニターの映像が切り替わった。そこに映し出されたのは、人間と見分けのつかない姿をした人工生命体たちだった。彼らは既に各地に潜入を完了し、人間社会に溶け込んでいる。
「シャドウ、報告しろ」
「はい、マスター」ひとりの女性型人工生命体が前に出た。「地球軌道エレベーター第47階層、月面都市ネオ・アポロ、火星植民地コロニー1、各所への配置が完了しています。合計127体の工作員が待機中です」
ヴォイドの口元が邪悪に歪んだ。これまでの彼は力による支配を試みてきたが、それでは人間たちの結束を強めるだけだということを学習していた。真の破滅は内側から訪れる。人間同士が憎み合い、疑心暗鬼に陥れば、彼らは勝手に自滅していくのだ。
「では始めよう。まずは軌道エレベーターの商業区画から」
同じ頃、軌道エレベーターの第23階層にある大型商業施設では、いつものように多くの人々が行き交っていた。地球と宇宙を結ぶ中継地点として発展したこの階層は、様々な種族や職業の人々が集まる場所だった。
カフェテラスに座る若い男性――工作員のひとり、コードネーム「イグニス」は、隣のテーブルの会話に耳を傾けていた。
「最近、人工生命体の目撃情報が増えてるって話、本当かしら?」
「ああ、俺の知り合いの配達員も言ってたよ。なんでも木星圏で大規模な施設が発見されたらしい」
イグニスは静かに立ち上がると、二人のテーブルに近づいた。人間的な笑顔を浮かべながら。
「すみません、お話を聞かせていただいて。実は私も配達業界で働いているんですが、最近気になることがあって」
男性が振り返る。「どんなことです?」
「人工生命体なんですが、本当に我々と共存できる存在なんでしょうか?」イグニスの声には巧妙に不安の色が混じっていた。「彼らは人間の感情から生まれたとはいえ、もともと負の感情から生まれた個体も多いと聞きます。そんな存在が人間社会に溶け込むなんて……」
「でも、友好的な個体もいるって話じゃない?」女性が反論した。
「そう見えているだけかもしれませんよ」イグニスは首を振った。「彼らには人間には理解できない思考回路があります。今は大人しくしていても、いつ豹変するかわからない。現に、各地で不可解な事件が増えているじゃないですか」
実際、そうした「事件」の多くはヴォイドの配下が仕組んだものだったが、それを知る由もない人間たちは、イグニスの言葉に不安を募らせ始めた。
月面都市ネオ・アポロでも、同様の工作が進んでいた。地下街の情報端末で働く工作員「ミラージュ」は、日々のニュース配信に巧妙に偏向した情報を混入させていた。
『人工生命体関連事故、今月だけで12件に増加』
『専門家警告:「感情物質化技術の制御は本当に可能なのか」』
『軌道エレベーター作業員の証言:「あいつら、人間のふりして近づいてくる」』
こうした情報は瞬く間に拡散し、人々の心に不信の種を植え付けていった。
ケイが蒼太たちの救出に向かっている間、月面都市の管制センターでは異変が起き始めていた。
「おかしいな、ネットワークのトラフィックが急激に増加している」
同僚のオペレーターが首をひねる。「人工生命体関連のフォーラムへのアクセスが異常に多い。しかも、内容がどれも批判的なものばかりだ」
別のオペレーターが振り返った。「さっき市民の問い合わせセンターから連絡があった。人工生命体の監視を強化してくれって要望が、この1時間で300件も来てるらしい」
管制室の雰囲気が次第に重くなっていく。これまで表面上は平穏を保ってきた人間と人工生命体の関係に、明らかな変化の兆しが現れていた。
火星植民地でも状況は同じだった。資源採掘施設で働く人々の間に、人工生命体への警戒感が急速に広まっていた。
「やつらが感情を操れるって本当か?」
「俺たちの心を勝手に読んでいるかもしれない」
「政府は何を考えているんだ。もっと厳しく管理すべきだろう」
こうした声は日増しに大きくなり、各地で人工生命体排斥を求めるデモや集会が開かれるようになった。まさにヴォイドの思惑通りの展開だった。
ヴォイドの要塞では、リアルタイムで人間社会の混乱が報告されていた。
「マスター、予想以上の効果です」シャドウが興奮気味に報告した。「地球圏全体で人工生命体への不信が高まっています。このペースなら、あと数日で本格的な社会分裂が始まるでしょう」
「素晴らしい」ヴォイドは満足げにうなずいた。「人間という種族の愚かしさよ。わずかな不安を煽られただけで、これほど簡単に分裂する。これが、あの橘蒼太が守ろうとしている『繋がり』の正体だ」
ヴォイドの脳裏に、廃棄施設で必死にルナを守っていた蒼太の姿が浮かんだ。あの少年の理想主義的な信念が、まもなく現実の前に打ち砕かれることを思うと、ヴォイドの心は歓喜に震えた。
「次の段階に移行しろ。今度は人工生命体に化けた工作員に『反撃』させるのだ。人間どもがさらに恐怖するよう、少し派手にやれ」
その命令を受けて、各地に潜入していた工作員たちが動き出した。彼らは人工生命体を装い、人間に対して威嚇的な行動を取り始めた。もちろん、実際に危害を加えることはしない。それでは人間たちが団結してしまう可能性があるからだ。ただ恐怖心を煽るだけで十分だった。
軌道エレベーターの商業区画で、ひとりの「人工生命体」が人間の男性に向かって怒鳴った。
「お前たちは我々を理解しようともしない!いずれ後悔することになるぞ!」
月面都市の街角では、別の「人工生命体」が通行人を睨みつけながらつぶやいた。
「人間など、所詮我々の糧でしかない……」
こうした小さな「事件」が積み重なることで、人々の不安は確実に恐怖へと変わっていった。
そして遂に、決定的な瞬間が訪れた。地球の首都圏で開かれていた平和集会――人間と人工生命体の共存を訴える集会に、ヴォイドの工作員が紛れ込んでいたのだ。
集会の最中、突然工作員の一人が立ち上がり、大声で叫んだ。
「共存など幻想だ!我々人工生命体こそが、この宇宙の真の支配者となるべき存在なのだ!」
会場は一瞬静まり返り、次の瞬間、パニックに陥った。人々は逃げ惑い、警備員が駆けつける中、工作員は姿を消した。しかし、その映像はすぐにネットワークで拡散され、人間社会の人工生命体への不信は決定的なものとなった。
ヴォイドの策略は完璧だった。彼は力で支配しようとするのではなく、人間の心の脆さを利用したのだ。そして今、宇宙全体が人間と人工生命体の対立という新たな局面を迎えようとしていた。
木星圏の要塞で、ヴォイドは勝利の笑みを浮かべていた。まもなく蒼太たちが帰還するだろうが、その時には既に彼らの愛する世界は分裂と憎悪に支配されているのだ。
「橘蒼太よ、お前の『繋がり』とやらで、この状況を打破してみせろ」
ヴォイドの哄笑が、暗黒の宇宙に響き渡った。