明治二十三年、十月の終わり。横浜港に立ち込める潮風は、いつもより冷たく感じられた。
蒸気船「飛鳥丸」の甲板に立つ海堂蒼一郎は、故郷の港の変貌ぶりに目を見張った。五年前に英国へ旅立った時とは比べものにならぬほど、港には異国の船舶が数多く停泊している。煉瓦造りの倉庫群が立ち並び、その間を行き交う人々の服装も、和装と洋装が入り混じって実に雑多だった。
「随分と様変わりしたものだな」
蒼一郎は深く息を吸い込んだ。潮の香りに混じって、石炭の煤煙や異国の香辛料、そして何か新しい時代の匂いが漂っている。それは決して不快なものではなく、むしろこの国が確実に前進している証拠のように思えた。
だが、その胸の奥には重い石が沈んでいる。
英国からの急報——父、海堂源三郎の訃報が届いたのは、三週間前のことだった。ロンドンの貿易商会で研鑽を積んでいた蒼一郎にとって、それはあまりにも突然の知らせだった。
船が岸壁に接岸すると、タラップが降ろされた。蒼一郎は慣れ親しんだ革鞄を手に、五年ぶりの故郷の土を踏む。
「蒼一郎様!」
人混みの中から聞き覚えのある声が響いた。振り返ると、商会の古参番頭である田中庄吉が、深々と頭を下げて立っている。五年前よりも随分と白髪が増え、背中も丸くなったように見えた。
「田中さん、お疲れ様でした。長らくお世話をおかけしました」
「とんでもございません。お帰りなさいませ」
田中の目には薄っすらと涙が浮かんでいた。蒼一郎は胸が締め付けられる思いだった。この男は父の代から潮騒商会を支え続けてきた人物である。きっと父の死を、誰よりも悲しんでいるに違いない。
「父の最期は……」
「安らかでございました。『蒼一郎が帰ってくるまで』と、最後まで気丈でいらっしゃいました」
二人は人力車に乗り込み、関内の商会へ向かった。車窓から見える街並みは、確実に西洋化の波を受けている。ガス灯が立ち並び、洋風建築の商店が軒を連ねている。しかし同時に、江戸の面影を残す建物や、着物姿の人々も数多く見受けられる。まさに東西の文化が交錯する、不思議な魅力を放つ街だった。
「商会の方はいかがですか」
「正直申しまして、厳しい状況でございます」田中は重い口調で答えた。「旦那様がお亡くなりになってから、いくつかの取引先が様子見の姿勢を見せております。特に、ライバルの三菱が積極的に攻勢をかけてきており……」
蒼一郎は黙って聞いていた。予想していたことではある。創業者である祖父の代から築き上げてきた信用も、後継者が不在では簡単に揺らいでしまう。それが商いの厳しさというものだ。
潮騒商会の建物が見えてきた。三階建ての洋風建築で、一階が事務所、二階が応接室、三階が蒼一郎の住居となっている。建物の正面には「潮騒商会」の看板が誇らしげに掲げられていた。
玄関をくぐると、従業員たちが整列して待っていた。皆、緊張した面持ちで蒼一郎を見つめている。その視線には期待と不安が入り混じっていた。
「皆様、長らくお疲れ様でした」
蒼一郎は一人一人の顔を見回した。見覚えのある顔もあれば、この五年の間に加わった新しい顔もある。しかし全員が、この商会の未来を心配していることは明らかだった。
「本日より、微力ながら潮騒商会の三代目として、皆様とともに働かせていただきます。至らぬ点も多々あろうかと思いますが、何卒よろしくお願いいたします」
深々と頭を下げる蒼一郎に、従業員たちも一斉に頭を下げた。
その後、田中に案内されて父の書斎を訪れた。机の上には几帳面に整理された書類が積まれており、壁には世界地図が掛けられている。地図には赤いピンが無数に刺してあった。それらは全て、潮騒商会が取引を行っている港を示していた。
「お父様は最後まで、世界中の港との取引拡大を夢見ておられました」田中が静かに語った。「『いつの日か、七つの海すべてに潮騒商会の名を轟かせたい』と」
七つの海——それは父がよく口にしていた言葉だった。幼い頃、蒼一郎は父の膝の上でその話を何度も聞かされた。世界中の港を結び、東西の架け橋となる。それが潮騒商会の理念だった。
「しかし現実は厳しゅうございます」田中は続けた。「資金繰りも苦しく、このままでは……」
「分かりました」蒼一郎は振り返った。「詳しい話は明日聞かせてください。今日はもう遅いでしょう」
田中が帰った後、蒼一郎は一人書斎に残った。父の椅子に座り、世界地図を見つめる。ロンドンで学んだ最新の貿易手法、世界情勢への理解、そして英語をはじめとする語学力。それらの知識が今、試されようとしている。
だが同時に、大きな不安も胸を支配していた。果たして自分に、この商会を立て直すことができるのだろうか。父や祖父のように、従業員たちから信頼される経営者になれるのだろうか。
その時、机の引き出しから一通の封書を見つけた。表には「蒼一郎へ」と父の筆跡で記されている。震える手で封を切ると、几帳面な文字で綴られた父の遺言が現れた。
『蒼一郎よ、お前がこの手紙を読んでいるということは、私はもうこの世にいないのだろう。悲しませて申し訳ない。しかし、潮騒商会の未来を託せるのは、お前しかいない。祖父が築き、私が守ってきたこの商会を、今度はお前が世界に羽ばたかせてくれ。困難な時もあろうが、信念を曲げることなく、正々堂々と商いに励んでほしい。七つの海に潮騒の名を——それが我々の夢だ』
蒼一郎は静かに手紙を折りたたんだ。窓の外では、横浜港の灯りが煌めいている。異国の船舶が発する汽笛の音が、夜風に乗って響いてきた。
「父上、必ずや」
蒼一郎は立ち上がり、世界地図の前に歩み寄った。そして一つ一つのピンを指でなぞりながら、心の中で誓いを立てた。潮騒商会を必ず再興させる。そして父の夢である「七つの海への進出」を実現させる。
しかし、そのためには現在の困難を乗り越えなければならない。資金繰りの問題、ライバル企業の攻勢、そして何より従業員たちの信頼を勝ち取ること。課題は山積していた。
だが不思議と、心は次第に落ち着きを取り戻していった。英国で学んだ五年間は決して無駄ではない。そして何より、自分には潮騒商会の血が流れている。
翌朝、必ず新たな船出が始まる。