蒼龍丸がシンガポール港に滑り込んだのは、東の空が白み始めた頃だった。マストの先から見える港の光景に、蒼一郎は息を呑んだ。無数の船舶が停泊する巨大な港には、各国の旗がはためき、まさに世界の縮図がここにあった。
「すげえな、こりゃあ」
鉄蔵が甲板から身を乗り出して呟く。港には英国の軍艦から中国のジャンク船、マレーの小舟まで、ありとあらゆる船が犇めき合っている。朝靄の向こうからは、既に荷役作業の喧騒が聞こえてきた。
「想像以上ですね」
マリアが航海図を丁寧に畳みながら言った。彼女の青い瞳には、新たな冒険への期待が宿っている。
「香港も大きな港でしたが、ここはまた違う活気がありますね。まさに東西の文化が交錯する場所という感じです」
明華は黙って港を見つめていた。故郷上海を離れてから随分と経つが、こうして中華系の商人たちが活発に商売を営む姿を見ると、不思議な安堵感を覚える。
「あそこに見えるのは華僑の商館ですね」
明華が指差す方向には、中国風の装飾を施した立派な建物群が建ち並んでいる。
「香港で聞いた話では、シンガポールの華僑商人たちは独自の商業ネットワークを築いているとか。きっと何かの手がかりが得られるでしょう」
蒼一郎は頷いた。七つの契約を集めるという使命は重いが、仲間たちがいれば乗り越えられる。そんな確信が、香港での明華の活躍を見て以来、より一層強くなっていた。
入港手続きを済ませ、一行は早速情報収集に乗り出した。シンガポールの街は想像以上に国際色豊かで、通りを歩けば英語、中国語、マレー語、タミル語などが飛び交っている。
「まさに商都ですね」
蒼一郎が感嘆の声を上げる。横浜も国際都市だが、ここシンガポールの多様性は桁違いだった。香辛料の香りが漂う市場、色とりどりの布地を扱う店、宝石商まで、世界中の商品がここに集まってくる。
明華の案内で華僑街へ向かう途中、鉄蔵が興味深そうに辺りを見回していた。
「おい明華、あそこで売ってるのは何だ?」
「燕の巣ですね。中華料理の高級食材です。それから向こうに見えるのは漢方薬の店です」
明華の説明に耳を傾けながら、一行は華僑街の中心部へと歩を進めた。通りの両側には伝統的な中国建築の商館が立ち並び、軒先には漢字で書かれた看板が揺れている。
その時、角の向こうから年老いた中国人男性が現れた。白髪を丁寧に結い、質素ながら品のある服装をしている。その男性は明華を見ると、驚いたような表情を浮かべた。
「おや、君は確か...」
男性が中国語で話しかけると、明華も中国語で応答した。しばらく会話を交わした後、明華が振り返る。
「蒼一郎さん、こちらは陳老人です。この辺りでは有名な商人で、様々な情報に通じていらっしゃいます」
陳老人は日本語で丁寧に挨拶した。
「初めまして。陳と申します。明華君からお話を伺いました。日本から来られた商人の方々でしたか」
「海堂商会の海堂蒼一郎です。こちらこそよろしくお願いします」
蒼一郎が丁寧に頭を下げると、陳老人は満足そうに頷いた。
「礼儀正しい方ですね。明華君の目に狂いはなかった。さあ、立ち話もなんですから、私の店でお茶でも飲みませんか?」
陳老人の店は華僑街でもひときわ立派な商館だった。一階は様々な商品を扱う店舗になっており、二階が応接間になっている。上質な茶器で淹れられた烏龍茶の香りが部屋に広がった。
「それで、皆さんは何をお探しなのですか?」
陳老人の問いに、蒼一郎は慎重に答えた。
「実は、古い契約書に関する情報を集めています。私の祖父が残した『七つの契約』というものなのですが...」
陳老人の表情が変わった。茶碗を置くと、じっと蒼一郎を見つめる。
「七つの契約、ですか。随分と古い話を持ち出しますね」
「ご存知なのですか?」
マリアが身を乗り出す。陳老人はゆっくりと頷いた。
「噂程度ですが。確かにそのような契約書を集めている人物がいると聞いたことがあります。ヘンドリック・ファン・デル・ベルクという名の収集家でしたね」
一行の間に緊張が走る。ついに手がかりが見つかったのだ。
「その方はどちらに?」
「彼は普段、ラッフルズ・ホテル近くの骨董店に出入りしています。ただし...」
陳老人が言葉を濁す。
「ただし?」
「彼は非常に用心深い人物だと聞きます。見ず知らずの人間には警戒心を抱くでしょう。まして、七つの契約のような貴重なものを求めているとなれば」
蒼一郎は考え込んだ。せっかく手がかりを掴んだのに、簡単には近づけないということか。
「何か良い方法はありませんでしょうか?」
「そうですね...」
陳老人は暫く考えてから口を開いた。
「実は明日、華僑商人たちの集まりがあります。各国の商人や収集家も参加する、情報交換の場です。そこにファン・デル・ベルクも顔を出す可能性があります」
「それは願ってもない機会ですね」
「ええ、ただし正式な紹介状が必要です。幸い、明華君の人柄を見込んで、私が保証人になることもできますが...」
明華が驚いた表情を見せる。
「陳老人、それは...」
「君は香港で立派に仕事をこなしたと聞いています。商人としての腕前も確かなようですし、何より目が澄んでいる。悪いことをする人間の目ではありませんよ」
陳老人の言葉に、蒼一郎は深い感銘を受けた。商人の世界では信頼が何より大切だということを、改めて実感する。
「ありがとうございます。必ずやその信頼にお応えします」
「期待していますよ。ただし、ファン・デル・ベルクは相当な曲者だと聞きます。簡単には契約書を手放さないでしょう」
「覚悟はできています」
蒼一郎の決意に満ちた声を聞いて、陳老人は微笑んだ。
「その意気です。では明日の集まりの詳細をお教えしましょう」
夕暮れが迫る頃、一行は陳老人の店を後にした。シンガポールの街に明かりが灯り始め、昼間とはまた違った表情を見せている。
「いよいよですね」
マリアが呟く。七つの契約の一つに、また一歩近づいた。
「ああ、だが油断は禁物だ」
鉄蔵が腕組みをしながら言う。
「陳老人の話では、そのファン・デル・ベルクってのは相当手強そうだからな」
「でも、必ず手がかりを掴みましょう」
明華の言葉に、蒼一郎は力強く頷いた。祖父の遺志を継ぎ、真の国際協調を実現するために。そして仲間たちと共に歩む道を切り開くために。
南海の商都シンガポールで、新たな挑戦が始まろうとしていた。