ペルシア湾の朝焼けが水平線を薄紅に染める中、蒼一郎は甲板に立ち、手にした契約書を何度も読み返していた。羊皮紙に記された初代当主の文字は、時を経ても力強く、そこに込められた先見の明に改めて驚嘆せずにはいられなかった。
「石油か……」
呟きながら、蒼一郎は昨夜のアブドゥルとの会話を思い返していた。真珠商人は語っていた。海底から湧き出る黒い液体が、いずれ世界を動かす力となるであろうことを。そして初代当主がその可能性を見抜き、各国が争奪戦を繰り広げる前に平和利用のための枠組みを作ろうとしていたことを。
「蒼一郎さん、お早うございます」
背後からマリアの声が聞こえた。振り返ると、彼女は既に男装に身を包み、髪をきつく結い上げていた。朝の光を受けて、その瞳は深い青色に輝いている。
「君も早いな。眠れなかったのか?」
「ええ。昨夜のアブドゥル様のお話が頭から離れなくて」マリアは甲板の手すりに寄りかかりながら続けた。「石油が本当にそれほど重要なものになるとしたら、私たちの使命も一層重いものになりますね」
蒼一郎は頷いた。確かに、これまで手に入れた契約書はどれも商業的な意味合いが強かった。しかし、この第三の契約は違う。世界の未来を左右しかねない資源の管理に関わるものだった。
「おい、お前たち!」
鯨岡の大声が響いた。船尾で釣り糸を垂らしていた鉄蔵が、何やら興奮した様子で手招きしている。
「どうした、鉄蔵?」
「向こうを見ろ!」
指差す方向を見ると、水平線の彼方に黒い煙を吐く汽船が見えた。それも一隻や二隻ではない。少なくとも五隻はある船団が、こちらに向かって航行している。
明華が望遠鏡を持って駆け上がってきた。
「蒼一郎兄さん、あの船団の先頭を行く船……見覚えがありませんか?」
望遠鏡を受け取った蒼一郎は、眉をひそめた。確かに見覚えがある。あの船影は――
「黒崎の船だ」
その名前を口にした瞬間、甲板の空気が張り詰めた。黒崎商事の若き当主、黒崎慶一郎。蒼一郎と同世代でありながら、その商才と冷酷さで知られる男だった。
「奴もクウェートに向かっているのか?」鉄蔵が唸った。
「いや、既にクウェートから出航している」蒼一郎は望遠鏡を下ろしながら答えた。「あの進路を見る限り、紅海へ向かっている。次の目的地は……」
「エチオピアね」マリアが先回りして言った。
蒼一郎は歯軋りした。黒崎もまた、七つの契約の存在を知っているのだ。そして恐らく、第三の契約を手に入れるため、自分たちより先にクウェートに到達していたのだろう。
「急ぐぞ」蒼一郎は振り返って仲間たちに告げた。「黒崎に先を越されるわけにはいかない」
三日後、紅海の蒸し暑い風を受けながら、一行はエチオピア高原への入口となる港町マッサワに到達していた。ここから内陸のアジス・アベバまでは険しい山道を行かねばならない。
港で情報を集めている明華が戻ってきた時、その表情は冴えなかった。
「黒崎の一行は昨日、既に内陸へ向けて出発しました。それも現地の有力者を大勢引き連れて」
「畜生」鉄蔵が拳を握りしめた。「あいつら、金に物を言わせて先回りしやがったな」
しかし蒼一郎は意外にも冷静だった。むしろ、その瞳には闘志の炎が宿っているように見えた。
「構わない。我々には我々のやり方がある」
「蒼一郎兄さん?」
「初代当主の理念を理解しているのは我々だけじゃない。ヨハネス老人もまた、その理念に共感してくれているはずだ。金や権力では買えないものがある」
マリアが微笑んだ。「信頼、ですね」
「その通りだ」
エチオピア高原への道のりは過酷だった。灼熱の太陽、乾いた風、そして標高三千メートルを超える険しい山道。しかし四人は歯を食いしばって進んだ。
三日目の夕方、遂にアジス・アベバの街が見えてきた時、蒼一郎たちは愕然とした。街の中心部に、黒崎商事の旗が翻っているではないか。
「まさか……」明華の声が震えた。
街に入ってみると、至る所に黒崎の手下らしき男たちが配置されている。そして市場では、コーヒー豆の買い占めが始まっていた。
「あの野郎、力ずくで契約を奪うつもりか」鉄蔵が憤った。
だが蒼一郎は首を振った。
「いや、黒崎はそんな単純な男じゃない。奴にも奴なりの信念がある」
その時、街の向こうから馬蹄の音が響いてきた。見ると、立派な馬車に乗った男が近づいてくる。間違いない、黒崎慶一郎その人だった。
馬車が止まり、黒崎が降り立った。彼は蒼一郎と同じ年頃だが、その眼光は鋭く、まとう雰囲気には野心家特有の冷徹さがあった。
「やあ、海堂君。君もここまで来たのか」
黒崎の声には余裕が漂っていた。
「黒崎……」
「第四の契約なら、既に私の手にある」黒崎は懐から契約書を取り出して見せた。「ヨハネス老人も、私の提案に納得してくれたよ。エチオピアのコーヒーを世界市場で最高価格で取引する。それが彼らにとっても最良の選択だと分かってもらえた」
蒼一郎の拳がわずかに震えた。しかし、彼は冷静さを保とうとした。
「金だけが全てじゃない」
「君らしい理想論だな」黒崎は嘲笑うように言った。「だが現実を見ろ。石油の時代が来る。その時、旧来の貿易システムなど何の意味もなくなる。生き残れるのは、新しい時代に適応できる者だけだ」
「初代当主の理念を理解していないな」
「理念?」黒崎の瞳が光った。「私も初代海堂翁の理念は理解しているつもりだ。ただし、君とは解釈が違うようだがね」
そう言って、黒崎は再び馬車に乗り込んだ。
「次はインドのデリーだ。第五の契約を巡って、再び会うことになるだろう。その時まで、せいぜい理想を大切にしたまえ」
馬車が去った後、蒼一郎は長い間黙っていた。仲間たちも言葉をかけられずにいた。
やがて蒼一郎は顔を上げた。その瞳には、失意ではなく、むしろ新たな決意の光が宿っていた。
「分かった。黒崎の真意が見えてきた。奴も初代当主の理念を知っている。ただし、その実現方法が我々とは正反対なのだ」
マリアが歩み寄った。「どういう意味ですか?」
「奴は力と富による統一を目指している。それに対して我々は――」蒼一郎は空を見上げた。「信頼と協調による結束を信じる。この戦いは、単なる商売上の競争ではない。世界の未来を決める理念の戦いなのだ」
夕日がエチオピア高原を赤く染める中、四人は新たな決意を胸に、次なる戦いへの準備を始めた。残る契約書は三つ。そして黒崎との対決は、これからが本番だった。