明け方の靄が立ち込める中、一行はマルセイユの宿を静かに後にした。ピエール・デュボワが用意してくれた馬車に揺られ、プロヴァンス地方の内陸部へと向かう。黒いコートの男の影を振り切るためにも、早朝の出発は正解だったようだ。
「本当に美しい土地ですね」
マリアが窓から見える風景に感嘆の声を上げる。朝日に照らされた丘陵地帯には、見渡す限りブドウ畑が広がっていた。規則正しく植えられたブドウの木々が、まるで緑の絨毯を敷き詰めたかのように美しい光景を作り出している。
「この辺りのワインは、世界でも最高級品として知られているからな」鯨岡が煙管を咥えながら言った。「俺も昔、船でボルドーワインを運んだことがある。一樽で庶民の年収ほどする代物だった」
「でも、作っている農民の暮らしはどうなのでしょうか」明華が心配そうに呟く。「上海でも、良い茶葉を作る農家ほど貧しいという話をよく聞きました」
蒼一郎は明華の言葉に深く頷いた。商売の世界では、生産者と消費者の間に大きな価格差が生まれることが珍しくない。特に農産物の場合、中間業者が利益の大部分を持っていくことが多かった。
馬車は石造りの小さな村に到着した。デュボワの紹介状を持参して訪れたのは、代々この地でワイン造りを営むモレル家だった。家長のジャン・モレルは五十代半ばの男性で、日に焼けた顔には深い皺が刻まれている。しかし、その目には誇り高い職人の光が宿っていた。
「日本からいらした方々ですね。デュボワ氏からお話は伺っております」
モレルは流暢ではないが心のこもった英語で挨拶した。彼に案内されてブドウ畑を歩くと、その美しさの裏に隠された厳しい現実が見えてきた。
畑で働く人々の服装は質素で、中には破れた箇所を丁寧に繕った跡が見える。子供たちも学校に行かず、家族の手伝いをしている姿が目についた。
「今年の収穫はどうでしたか」蒼一郎が尋ねると、モレルの表情が曇った。
「質は良いのですが、仲買人が買い叩くのです。彼らは私たちに『他にも売り手はいる』と言って、不当に安い価格を押し付けてくる。しかし、私たちには貯蔵設備も販路もない。結局、彼らの言い値で売るしかないのです」
モレルの妻アニーが、素朴な昼食を用意してくれた。黒パンとチーズ、そして自家製のワインという簡素な食事だったが、その味わいは格別だった。特にワインは、マルセイユの高級レストランで飲んだものと遜色ない品質だった。
「これほど素晴らしいワインを作られているのに、正当な対価を得られないとは」マリアが憤慨した。「何か方法はないものでしょうか」
蒼一郎は考え込んだ。海堂商会の理念は、単なる利益追求ではない。取引相手と対等な関係を築き、互いに繁栄することが祖父の教えだった。
「モレルさん、もし安定した販路と適正な価格が保証されるなら、どれほどのワインを供給できますか」
「私の畑だけでは年間千本程度ですが、この村には同じような境遇の農家が二十軒ほどあります。皆で協力すれば、相当な量を確保できるでしょう」
「品質管理はいかがですか」
「それについては自信があります。私たちは三代にわたってこの土地でワインを作ってきました。手抜きをすれば、すぐに味に現れてしまいます」
蒼一郎は仲間たちと目を交わした。皆、同じことを考えているようだった。
「それでは、提案があります」蒼一郎が立ち上がった。「海堂商会として、この村の皆さんと直接取引契約を結びたいと思います。仲買人を通さず、適正な価格でワインを買い取らせていただく。その代わり、品質については厳格な基準を設けさせていただきます」
モレルの目が驚きで見開かれた。
「本当ですか。しかし、私たちは日本という遠い国のことをよく知りません。契約など...」
「ご心配は無用です」明華が流暢なフランス語で答えた。彼の語学力は、こうした交渉の場で真価を発揮する。「私たちは既にヨーロッパ各地で同様の取引を行っています。互いの利益を尊重した、長期的な関係を築きたいのです」
その夜、村の集会所でワイン農家たちとの会合が開かれた。蒼一郎は祖父が残した理念について語り、海堂商会が目指す国際的な貿易ネットワークの構想を説明した。
「我々が求めているのは、単なる商品ではありません。フランスの文化そのものなのです。皆さんが丹精込めて作られたワインを通じて、日本の人々にこの美しい土地の魅力を伝えたい」
農家たちの表情が次第に明るくなっていく。長年の苦労が報われる希望が見えてきたのだ。
翌朝、モレルは蒼一郎たちを自分の酒蔵に案内した。石造りの建物の奥に、古い木箱が大切に保管されていた。
「これを見てください」
箱の中には、古い羊皮紙の契約書が納められていた。フランス語と日本語で書かれたその文書には、海堂商会創設者である蒼一郎の祖父と、モレルの祖父の名前が記されている。
「やはり、第五の契約でしたね」蒼一郎が感動を込めて呟いた。
契約書には、ワインの品質基準や取引条件だけでなく、両国の文化交流についても詳細に記されていた。祖父は単なる商取引を超えた、文化の架け橋となることを目指していたのだ。
「この契約を現代に蘇らせましょう」蒼一郎が提案した。「新たな時代にふさわしい形で」
契約調印式は、ブドウ畑を見渡す丘の上で行われた。夕日に照らされた畑は、まるで黄金に輝く海のようだった。蒼一郎とモレル、そして村の代表者たちが新しい契約書に署名を行う。
「これで第五の契約が現代に復活しました」鯨岡が満足そうに言った。「いよいよ世界規模の貿易網が見えてきたな」
「でも、これからが本当の始まりです」マリアが遠くを見つめながら呟いた。「まだ二つの契約が残っています。そして、あの黒いコートの男の正体も気になります」
明華が契約書を大切に革鞄にしまいながら言った。「次はどちらに向かいましょうか。北の海か、それとも南の大陸か」
蒼一郎は夕日に染まる地平線を見つめた。祖父の足跡を辿る旅は、単なる過去の発掘ではない。未来への希望を築く旅なのだ。そして、その道のりはまだ半ばに過ぎない。
「明日、マルセイユに戻って情報を集めましょう。第六と第七の契約の手がかりを掴まなければ」
一行は村人たちに見送られながら、新たな希望を胸に次の目的地へと向かった。ブドウ畑に響く彼らの歌声が、地中海の風に乗って遠くまで響いていく。その美しい調べは、まるで新しい時代の到来を告げる讃美歌のようだった。