セイロンの茶葉契約が正式に調印されてから三日後、蒼一郎は商会の事務所で古い世界地図を広げていた。七つの契約のうち六つまでが完了し、残るは最後の一つ。その手がかりを求めて、彼は祖父の残した資料を再び読み返していた。

「蒼一郎さん、これを」

 マリアが一通の電報を手に現れた。彼女の表情には興奮と不安が入り混じっている。

「ニューヨークからです。ハドソン商会のウィリアム・ハドソン氏からの返信です」

 蒼一郎は電報を受け取り、目を通した。内容は簡潔だったが、その重要性は計り知れなかった。

「第七の契約について話し合いたい。ニューヨークまで来られるか」

 部屋に沈黙が流れる中、鯨岡が唸り声を上げた。

「ニューヨークたぁ、また随分と遠くへ行くことになるじゃねぇか」

 明華も地図を覗き込みながら呟いた。

「大西洋を渡るということですね。これまでとは比較にならない航海になります」

 蒼一郎は立ち上がり、窓の外に広がる横浜港を見つめた。多くの外国船が行き交う港の向こうに、今度は太平洋ではなく、遥か彼方の大西洋が待っている。

「行くしかない。祖父の遺志を継ぐためにも、第七の契約の正体を知らなければならない」

 その時、事務所の扉が勢いよく開かれた。黒崎商事の使いの者が息を切らして駆け込んできた。

「海堂様、大変です。黒崎様がお呼びです。至急、黒崎商事までお越しください」

 蒼一郎たちが黒崎商事の応接間に通されると、黒崎雄三が薄笑いを浮かべて待っていた。

「アメリカ行きの計画、聞かせてもらったよ」

「何の話だ」

「とぼけるな。ニューヨークのハドソン商会との接触、こちらも把握している。だが残念ながら、その航海は実現しそうにない」

 黒崎は机の上の書類を指差した。

「太平洋航路の船便は向こう三ヶ月、すべて満席だ。もちろん、私が手を回した結果だがね」

 マリアが前に出た。

「なら、大西洋経由で行けばいいだけのことです」

「ほう、お嬢さんはなかなか大胆だな。だが大西洋横断がどれほど危険か、分かって言っているのかね」

 鯨岡が拳を握り締める。

「てめぇ、いい加減にしろよ」

「落ち着け、鯨岡」蒼一郎が制した。「黒崎さん、あなたがなぜそこまで我々の行動を妨害するのか、理由を聞かせてもらおう」

 黒崎の表情が一瞬、複雑に歪んだ。

「七つの契約は、この国の未来を左右するものだ。それを若造に任せるわけにはいかん」

「祖父の意志を継ぐのは私の責任です」

「君の祖父は理想主義者だった。だが現実はそう甘くない。国際社会で生き抜くには、時として汚い手も使わねばならない」

 蒼一郎は真っ直ぐに黒崎を見つめた。

「それでも、信念を曲げるわけにはいきません」

 商会に戻った一行は、対策を練った。太平洋航路が封じられた以上、残る選択肢は一つしかない。

「ヨーロッパ経由でアメリカへ向かう」蒼一郎が地図上に航路を描いた。「まず上海へ戻り、そこからインド洋を通ってスエズ運河へ。地中海を抜けて大西洋に出る」

「とんでもない距離になりますね」明華が計算した。「少なくとも二ヶ月はかかるでしょう」

「だが、それしか道はない」

 マリアが航海図を広げながら言った。

「私の知人にロンドンで船舶会社を営んでいる者がいます。大西洋横断の定期便を持っているはずです」

 三日後、四人は再び旅立ちの準備を整えていた。今度の航海は、これまでのどの冒険とも比較にならない規模のものになる。

「本当に大丈夫なのかい」鯨岡が珍しく弱気な声を出した。「俺も長く海にいるが、大西洋は別格だからな」

「不安がないといえば嘘になります」蒼一郎が答えた。「でも、ここで諦めるわけにはいかない」

 明華が荷物を確認しながら呟いた。

「僕たちがここまで来られたのも、みんなで力を合わせてきたからです。今度も同じでしょう」

 マリアが振り返った。

「そうです。私たちには信念があります。それがあれば、どんな困難も乗り越えられるはずです」

 出発の朝、横浜港は濃い霧に包まれていた。四人が乗り込む船「海鳥丸」は、鯨岡の古い仲間が船長を務める貨物船だった。

「久しぶりだな、鉄蔵」

 船長の田中は鯨岡と固い握手を交わした。

「世話になる。頼んだ通り、上海経由でヨーロッパまで行ってくれるか」

「ああ、だが途中で黒崎の連中が邪魔をしてくる可能性がある。覚悟はしておけよ」

 霧が晴れ始めた頃、海鳥丸は静かに港を離れた。横浜の街並みが次第に小さくなっていく中、四人はデッキに並んで立っていた。

「長い航海になるな」蒼一郎が海を見つめながら言った。

「でも、私たちなら必ず成し遂げられます」マリアが答えた。

 船が外海に出た時、後方に黒い煙を上げる船が現れた。明らかに海鳥丸を追跡している。

「やはり来やがったか」鯨岡が舌打ちした。

 だが蒼一郎は動じなかった。

「どんな妨害があろうと、私たちは前進し続ける。それが信念というものだ」

 海鳥丸は大海原へと向かい、四人の最後で最大の冒険が始まった。大西洋の向こうで待つ第七の契約の謎。そしてそれが明かされた時、世界は大きく変わることになるのだった。

潮騒の商会と七つの海

34

大西洋横断

潮見 航

2026-04-23

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第34話 大西洋横断 - 潮騒の商会と七つの海 | 福神漬出版