リバプールの港に到着したのは、リッチモンドを発ってから十日後のことだった。工業都市特有の煤煙が空を覆い、無数の船が行き交う様子は横浜港よりもさらに雑然としている。蒸気船の汽笛が絶え間なく響き、世界最大の港の威容を見せつけていた。
「ここが世界の物流の中心地か」
蒼一郎は桟橋に立ちながら、眼前に広がる光景に息を呑んだ。マンチェスターからの綿織物、インドからの紅茶、中国からの絹、そしてアメリカからの小麦——世界各地の物産がこの港を経由して各国へと運ばれている。
「蒼一郎、あそこを見てくれ」
マリアが指差した方向に目を向けると、見覚えのある三本煙突の蒸気船が停泊していた。黒崎商会の商船である。
「やはり先に着いていたか」
「それにしても」と鉄蔵が腕を組んだ。「奴らの動きが早すぎるぜ。まるで全ての契約書の在り処を知っているみたいだ」
明華も頷いた。「確かに不自然ですね。我々が苦労して手がかりを追っているのに、黒崎は迷いなく各地を巡っている」
一行はまず宿を取り、情報収集を開始した。リバプール商工会議所で聞き込みを行うと、黒崎一慶がすでに二日前から精力的に活動していることがわかった。そして驚くべき事実も判明した。
「黒崎商会の当主が、各国の主要な商会と極秘会議を重ねているそうです」
商工会議所の事務員が教えてくれた情報に、蒼一郎は眉をひそめた。
「極秘会議?一体何を話し合っているのだろう」
「それが、どうも世界的な商業同盟の結成について議論しているらしいのです。参加者には、ロンドンの金融業者、ハンブルクの海運業者、さらには香港の貿易商まで含まれているとか」
その夜、宿で作戦会議を開いていると、予想外の来訪者があった。ホテルのボーイが取り次いだ名前に、一同は身を固くした。
「黒崎一慶様がお見えになっております」
応接室に現れた黒崎は、以前と変わらぬ冷徹な表情を浮かべていた。しかし、その瞳の奥には今までにない自信の光が宿っている。
「久しぶりだな、海堂蒼一郎。君たちの旅路、興味深く見させてもらった」
「見させてもらった、とは?」
「察しの通りだ。私は君たちの一歩先を行っていた。いや、正確には十歩先と言うべきかな」
黒崎は悠然と椅子に腰を下ろした。
「実は告白しよう。七つの契約書の在り処は、すでに全て把握していた」
「何だと?」
蒼一郎の驚愕の声に、黒崎は薄く笑みを浮かべた。
「君の祖父が残した記録は実に几帳面でな。商会の金庫に眠っていた彼の日記に、全ての手がかりが記されていたのだ」
マリアが立ち上がった。「それならなぜ回りくどい真似を?我々を監視する必要などなかったはずです」
「君は聡明だ、マリア・クロフォード嬢。確かに契約書の収集だけなら、監視の必要はなかった。だが私の目的は、それだけではない」
黒崎の表情が一変した。温和な仮面が剥がれ、野心に燃える本性が露わになる。
「私が求めているのは、七つの契約書が示す理念そのものだ。いや、より正確に言えば、その理念を歪めて利用することだ」
「理念を歪める?」
「そうだ。君の曾祖父が理想とした国際協力の精神——それを世界支配の道具に変える。七つの契約書は、確かに各国の主要港における協力関係を定めている。だがその関係を統括する存在が現れれば、どうなると思う?」
蒼一郎の血の気が引いた。黒崎の狙いがようやく理解できた。
「まさか、世界の物流を一手に握ろうというのか」
「その通りだ。横浜、上海、シンガポール、ボンベイ、スエズ、リバプール、そしてニューヨーク。これらの港を結ぶ航路を支配すれば、世界経済の生殺与奪権を握ることができる」
黒崎は立ち上がり、窓の外に広がるリバプール港を見つめた。
「君たちが各地で集めた契約書の断片は、私にとって貴重な情報だった。特に現地の協力者たちとの接触方法、既存の商業ネットワークの実態——これらは金では買えない財産だ」
「我々を利用していたというのか」
「利用?違うな。君たちには敬意を表している。理想に燃える若者たちの行動力は、実に参考になった」
明華が憤然として声を上げた。「あなたは海堂先生の理想を冒涜している!」
「理想?」黒崎が振り返った。「理想だけで世界は変わらない。力なき正義は無力、権力なき理念は空虚だ。私は海堂初代の理念を実現しようとしているのだ。ただし、より効率的な方法で」
鉄蔵が拳を握りしめた。「効率的だと?人を踏みつけにして築く繁栄に何の意味がある」
「踏みつける?誤解するな。私は誰も踏みつけはしない。ただ、適切な秩序を築くだけだ。無秩序な競争よりも、統制された協調の方が全体の利益になる」
黒崎は再び椅子に座り、四人を見回した。
「実は、君たちに提案がある。私の事業に参加しないか?海堂商会は歴史ある商家だ。その看板と人脈は、私の計画において貴重な価値を持つ」
「断る」
蒼一郎の即答に、黒崎は眉を上げた。
「即座に断るとは。理由を聞かせてもらおう」
「あなたの言う秩序とは、結局のところ独裁だ。一つの商会が世界の物流を支配すれば、それは商業の自由を奪うことになる」
「自由か」黒崎が苦笑した。「君の言う自由とは、強者が弱者を食い物にする自由のことか?現在の無秩序な競争で、どれだけの商人が破綻に追い込まれていると思う?」
「それでも」蒼一郎は立ち上がった。「人は自由に選択する権利がある。たとえ失敗の可能性があっても、自分の意志で道を選ぶべきだ」
「理想主義者め」黒崎の声が低くなった。「ならば仕方ない。君たちとは敵として相まみえることになる」
マリアが前に出た。「第七の契約書は渡しません」
「渡さない?」黒崎が笑った。「君たちはまだ理解していないようだ。私はすでに六つの契約書を手に入れた。そして第七の契約書の在り処も知っている」
「何?」
「リバプール海事博物館に保管されている、東インド会社の古文書の中にそれはある。明日には手に入れるだろう」
黒崎は立ち上がり、ドアに向かった。
「最後にもう一度だけ聞く。私の事業に参加する気はないか?世界を変える偉大な事業の一員になれるのだぞ」
「答えは変わらない」
「そうか」黒崎が振り返った。その表情には、もはや一片の温情もなかった。「ならば君たちは、新しい世界秩序の障害として排除するまでだ」
ドアが静かに閉まった後、部屋に重い沈黙が流れた。ついに黒崎の本性が明らかになった今、最終決戦が避けられないことを四人は悟っていた。