黒崎の放った砲弾が海面を叩き、巨大な水柱が立ち上がる。蒼一郎は舵輪を握り締めながら、岩礁の間を縫うように船を進めた。
「蒼一郎! このままでは逃げ切れぬぞ!」
鉄蔵の声が響く中、明華が血相を変えて駆け寄ってきた。その手には、先ほどの砲撃で船倉から飛び出した古い革装丁の書物が握られている。
「蒼一郎さん、これを見てください! 初代様の航海日誌です!」
マリアが振り返る。「今は戦闘中よ! そんなものを読んでいる場合じゃ――」
「違います!」明華が声を震わせた。「この日誌に、全ての答えが書かれているんです!」
蒼一郎は一瞬躊躇したが、明華の真剣な眼差しに心を動かされた。「マリア、舵を頼む!」
操舵をマリアに任せ、蒼一郎は明華の差し出した日誌を受け取る。表紙には確かに「海堂龍之介」の名前が刻まれていた。
ページを開くと、そこには見慣れない記号と数字が羅列されている。だが、よく見ると――
「これは、エジプトで学んだ暗号と同じ方式だ」
蒼一郎の指が震える。第二十四話でカイロの古代図書館で学んだ知識が、今ここで活かされようとしていた。鉄蔵が語った父との因縁も、この瞬間のためだったのか。
「明華、ランプを持ってきてくれ」
蒼一郎は必死に暗号を解読し始めた。背後では砲弾の音が響き続けているが、彼の意識は日誌に集中していた。
やがて、文字が浮かび上がってくる。
『明治七年 六月十五日 横浜港出航』
『余は今日、重大な決意を胸に航海に出る。七つの契約――それは世界を征服するためのものではない。むしろその逆である』
蒼一郎の心臓が激しく鼓動した。
『欧米列強の侵略を目の当たりにし、余は悟った。力による支配は必ず破綻する。真に必要なのは、対等な立場での国際協調である』
「そんな...」
マリアが呟いた。彼女もまた、イギリスの植民地政策を間近で見て育った身である。
『七つの契約とは、世界七大陸の代表的な港に拠点を築き、武力ではなく商業を通じた平和な関係を構築することなり。それぞれの文化を尊重し、互いの利益を図る――これこそが余の目指す道である』
蒼一郎の手が震える。祖父の真意は、彼が想像していたものとは正反対だった。
『だが余の理想は時代に先んじすぎていた。周囲は皆、富と権力のことしか考えぬ。ゆえに余は真の意図を隠し、あたかも野心的な商人であるかのように振る舞わねばならなかった』
鉄蔵が砲台から振り返る。「蒼一郎、何を読んでおる?」
「鉄蔵さん、貴方が父から聞いた龍之介の話――それは本当だったんですね」
鉄蔵の表情が変わる。「まさか、その日誌に...」
『特に鯨岡友蔵とは、この理想を共有できた。彼こそが余の志を理解する数少ない同志であった。もし余に何かあれば、彼が道を示してくれるであろう』
鉄蔵の目が潤む。「親父...まさか、そこまで龍之介さんと...」
蒼一郎は続きを読み上げた。
『余の遺志を継ぐ者よ。七つの契約の真の目的を忘れるな。それは征服ではなく調和である。世界の海を結ぶのは砲弾ではなく、互いを思いやる心なのだ』
その時、黒崎の声が海上に響いた。
「海堂! もはや逃げ場はないぞ! 七つの契約を渡せば命だけは助けてやろう!」
蒼一郎は日誌を胸に抱き、立ち上がった。風が彼の髪を揺らし、瞳には新たな決意の光が宿っている。
「黒崎一慶!」蒼一郎が大声で応えた。「貴方は七つの契約の真の意味を理解していない!」
「何だと?」
「それは世界支配の道具ではない! 国際協調と平和のための理念なのだ!」
黒崎の嘲笑が聞こえる。「戯言を! 綺麗事で世界は動かん!」
マリアが蒼一郎の肩に手を置いた。「蒼一郎...」
「マリア、僕たちは間違っていた」蒼一郎が振り返る。「祖父の真意を理解せずに、契約を集めることばかり考えていた」
明華が頷く。「でも今、真実が分かりました。僕たちがすべきことも」
鉄蔵が豪快に笑った。「そうか! だから親父は俺に、お前の家族を見守れと言ったのか!」
蒼一郎は再び日誌を開いた。最後のページには、こう記されている。
『余の志を継ぐ者たちよ。困難な道のりとなろう。だが信念を貫けば、必ず理解者が現れる。世界の海は一つに繋がっているのだから』
その瞬間、霧の向こうから複数の船影が現れた。蒼一郎たちを追って来たのか――そう思った時、先頭の船から見覚えのある旗が掲げられた。
それは、かつて龍之介が各国で結んだ友好の印。長い間忘れ去られていた、平和の象徴だった。
「あれは...まさか」
マリアが息を呑んだ。霧の中から現れたのは、世界各地の船団だった。それぞれ異なる国旗を掲げながらも、全ての船に龍之介の友好旗が翻っている。
蒼一郎は理解した。祖父の理想は決して消えてはいなかった。世界のどこかで、志を同じくする人々がその火を守り続けていたのだ。
そして今、その炎が再び燃え上がろうとしていた。