水平線の向こうに見える黒い影は、確かに政府の軍艦だった。煙突から立ち上る黒煙が、青い空に不吉な筋を描いている。各国船団が友好の証として掲げた青い三角旗が、急に色褪せて見えた。
「あれは……薩摩藩の『金剛』だな」
鯨岡が望遠鏡を覗きながら険しい表情で呟く。蒼一郎の胸に不安が走った。政府軍艦の接近は、この国際的な集まりが当局に知られたことを意味している。
「黒崎さん」
蒼一郎は振り返った。龍之介の航海日誌を手にした黒崎は、まだその内容に目を通していた。祖父の筆跡で綴られた真の理念——七つの契約が支配ではなく国際協調を目指したものだという事実に、彼の表情は複雑に変化していく。
「……俺は間違っていた」
黒崎が小さく呟いた。その声には、長年抱いていた怒りが静かに溶け去る響きがあった。
「海堂家を憎み続けてきたが、本当の敵は別にいたのかもしれん」
その時、風向きが変わった。それまで穏やかだった海風が急に強くなり、波も高くなり始める。マリアが空を見上げて眉をひそめた。
「嵐が来る。しかも、かなり大きなものよ」
彼女の予感は正しかった。西の空に黒い雲の壁が立ち上がり、みるみるうちに空全体を覆い始める。各国の船団も異変に気づき、旗旒信号で互いに連絡を取り合っていた。
「台風だ!」
明華が叫んだ。彼の故郷である上海でも、このような嵐を何度か経験したことがあるのだろう。その表情は青ざめている。
政府軍艦『金剛』も嵐の接近を察知したらしく、速度を上げてこちらに向かってくる。だが、自然の猛威の前では人間の都合など関係ない。風は更に強さを増し、波は船体を激しく揺らし始めた。
「各船に避難の指示を!」
蒼一郎が命じると、鯨岡が旗旒信号で各国船団に緊急避難を伝える。しかし、台風の勢力はあまりにも強大だった。黒い雲の壁が頭上を覆い、雨が横殴りに叩きつけてくる。
その時、黒崎の船『黒潮丸』のマストが風圧で大きくしなった。金属の軋む音が嵐の咆哮に混じって響く。
「船体にひびが入ったぞ!」
黒崎の部下が叫んだ。『黒潮丸』は老朽化が進んでおり、この激しい嵐には耐えられそうにない。
「黒崎さん、我々の船に移ってください!」
蒼一郎が大声で呼びかけた。だが、黒崎は首を横に振る。
「いや、俺はこの船と運命を共にする。それが船長の務めだ」
「何を言っているんですか! 今は意地を張っている場合では——」
蒼一郎の言葉は、巨大な波に遮られた。高さ十メートルはあろうかという波が船団を襲い、すべての船が激しく揺れる。マリアが舵を必死に握り、明華は装備品が散乱しないよう押さえていた。
その時、『黒潮丸』のマストが完全に折れた。巨大な帆柱が甲板に倒れ、船体に更なる損傷を与える。黒崎の船は明らかに沈没の危機にあった。
「部下だけでも避難させろ!」
鯨岡が怒鳴った。しかし、黒崎の表情は不思議なほど穏やかだった。
「海堂蒼一郎!」
嵐の中で、黒崎が大声で呼びかける。
「お前の祖父の真意を理解した! 七つの契約は、確かに世界の平和のためのものだったのだな!」
風雨の中でも、その声は確かに蒼一郎に届いた。
「俺は長年、海堂家への復讐に囚われていた! だが、本当に大切なのは未来を築くことだった!」
黒崎は航海日誌を高々と掲げる。
「この理念を受け継げ! 俺の分まで、世界に平和をもたらせ!」
次の瞬間、『黒潮丸』の船体が大きく傾いた。船は確実に沈み始めている。だが、黒崎は最後まで舵を握っていた。
「総員退避! 急げ!」
彼の部下たちが次々と海に飛び込み、蒼一郎たちの船に向かって泳いでくる。鯨岡と明華が救助用のロープを投げ、一人一人を引き上げた。
だが、黒崎だけは船に残っていた。
「黒崎さん!」
蒼一郎が身を乗り出して叫ぶ。
「まだ間に合います! こちらに!」
「いや」
黒崎が微笑んだ。その表情には、長年の重荷を下ろした安らぎがあった。
「俺には、やり残したことがある」
彼は沈みゆく船の舵を握り、政府軍艦『金剛』の方向に船首を向けた。『金剛』は嵐の中でも執拗にこちらに向かってくる。
「あの軍艦を足止めする。お前たちが各国船団と共に避難する時間を稼ぐ」
蒼一郎は黒崎の意図を理解した。沈みゆく船で軍艦に突っ込み、少しでも時間を稼ごうというのだ。
「そんな……!」
「これが俺の選択だ!」
黒崎が最後に叫んだ。
「海堂蒼一郎! お前の祖父の夢を叶えろ! 七つの海を結ぶその日まで!」
『黒潮丸』は傾斜を深め、波間に消えていく。だが、最後まで黒崎の姿が舵輪のそばに見えた。彼の船は確かに『金剛』の進路を妨げ、軍艦は一時的に停止を余儀なくされる。
その隙に、蒼一郎たちの船と各国船団は嵐の中を避難した。台風の猛威は続いていたが、黒崎の犠牲によって得られた時間で、全員が比較的安全な海域まで退避することができた。
嵐が去った後、蒼一郎は黒崎が最後に託した航海日誌を握りしめていた。そこには祖父龍之介の理念と、黒崎の理解が共に刻まれていた。
「黒崎さん……」
マリアが静かに呟く。
「彼は最後に、本当の自分を取り戻したのね」
水平線の向こうで、新たな光が差し始めていた。嵐の後の静寂の中で、蒼一郎は決意を新たにする。黒崎の犠牲を無駄にしないため、そして祖父の真の理念を実現するため、彼らの冒険はまだ続いていく。
だが、政府軍艦『金剛』の存在は、これからの道のりが決して平坦ではないことを物語っていた。