夜明け前の薄闇の中、千鶴は息を切らせながら慎之助の手に引かれて走っていた。足音が石畳に響き、それが追跡者たちの耳に届くのではないかと恐れながらも、止まることはできなかった。
「千鶴、大丈夫か」
振り返った慎之助の顔には、心配の色が濃く浮かんでいる。その表情を見て、千鶴は胸の奥に安堵を感じた。これこそが本物の慎之助だ。あの冷たく威圧的な偽者とは、まるで違う。
「ええ、なんとか」
そう答えながらも、千鶴の心は完全には落ち着かなかった。先ほど眠り草で眠らせた二人の男――一人は慎之助、もう一人は慎之助に化けた何者かだった。しかし、どちらが本物だったのか、今となってもはっきりとした確信は持てずにいる。
二人は人通りの少ない裏通りを抜け、古い神社の境内にたどり着いた。朱色の鳥居が暗闇に浮かび上がり、どこか不気味な静寂に包まれている。
「ここなら安全だろう」
慎之助は千鶴の手を離し、境内の石段に腰を下ろした。千鶴も隣に座り、ようやく息を整えることができた。
「慎之助さん、あの偽者は一体」
「分からない。だが、お前を狙っていることは確かだ」
慎之助の声には、怒りが込められていた。しかし千鶴は、その怒りすらも疑いの目で見つめてしまう自分に気づいた。本当にこの人が慎之助なのだろうか。心魂草の影響で、もはや何が真実なのか分からなくなっている。
「慎之助さん」
「何だ?」
「私たちが初めて出会ったのは、いつでしたっけ」
慎之助は少し驚いたような顔をした。それから、柔らかな笑みを浮かべる。
「お前が五つの時だ。父上の薬草問屋に、うちの親父が挨拶に来た。お前は庭で一人で花を摘んでいて、俺に花冠を作ってくれた」
その記憶は、千鶴にもある。鮮やかに蘇ってくる幼い日の思い出。しかし――
「その花は何の花でした?」
「桜だ。春の終わりで、散りかけの花びらがたくさん落ちていた」
千鶴の心に、氷のような冷たさが広がった。確かに慎之助の言う通り、春の日の出来事だった。しかし、花は桜ではない。椿だったはずだ。濃い紅色の椿の花を使って、不器用ながらも花冠を編んだ記憶がある。
「そう、桜でしたね」
千鶴は微笑みを作りながら答えた。内心では、恐怖が膨らんでいく。目の前にいるのは本当に慎之助なのか。それとも、またしても巧妙な偽者なのか。
「千鶴、顔色が悪いぞ。心魂草の影響がまだ残っているのか」
「ええ、少し」
慎之助は心配そうに千鶴の額に手を当てた。その手の温かさは確かに慣れ親しんだもので、千鶴は一瞬安らぎを感じる。しかし、すぐに別の疑念が心に浮かんだ。
そもそも、自分の記憶は正しいのだろうか。
椿だったと思っているが、本当に桜だったのかもしれない。心魂草の影響で、過去の記憶まで歪んでしまったのかもしれない。現実と幻覚の境界が曖昧になった今、自分の記憶すら信用できなくなっている。
「慎之助さん、私の父はどんな人でしたか」
「優しくて、患者思いの立派な薬草師だった。お前によく似て、人を救うことに生きがいを感じているような人だった」
それも千鶴の記憶と一致している。しかし、本当にそうだったのか。父の顔すら、今では朧げにしか思い出せない。温かな笑顔、大きな手、薬草の匂いに包まれた穏やかな日々――それらの記憶が、果たして真実なのか幻覚なのか、もはや判別がつかなくなっている。
「千鶴?」
慎之助の声に、千鶴は我に返った。いつの間にか涙が頬を伝っていた。
「すみません、少し動揺しているようです」
「無理もない。あんな目に遭ったのだから」
慎之助は千鶴の肩を優しく抱き寄せた。その優しさに、千鶴は泣きたくなった。しかし同時に、この優しさすら疑ってしまう自分の心が恨めしかった。
「慎之助さん、私が分からなくなりました」
「何が?」
「何が本当で、何が嘘なのか。何が現実で、何が幻覚なのか」
千鶴の声は震えていた。慎之助は黙って聞いている。
「今こうしてお話ししているのも、本当のことなのでしょうか。あなたが本物の慎之助さんなのかも分からない。いえ、私自身が本当に千鶴なのかすら」
「千鶴」
慎之助は千鶴の顔を両手で包み込んだ。その瞳には、深い悲しみが宿っている。
「お前は間違いなく千鶴だ。俺が知っている、大切な千鶴だ」
「でも、どうして分かるのですか」
「分かる。心で分かる」
その言葉に、千鶴は首を振った。
「心なんて、あてになりません。心魂草が心を惑わせるのですから」
慎之助は困ったような表情を浮かべた。それから、何かを決意したような顔になる。
「千鶴、俺がお前に話したことのない秘密を教えよう」
「秘密?」
「俺は昔から、お前が好きだった。同心になったのも、お前を守りたかったからだ」
千鶴の心臓が激しく鼓動した。その告白は、千鶴がひそかに望んでいたものだった。しかし――
「それも、本当のことでしょうか」
千鶴の冷たい反応に、慎之助は愕然とした表情を見せた。
「千鶴、お前は」
「私には何も分からないのです。この感情も、この記憶も、すべてが疑わしく思えて」
千鶴は立ち上がった。慎之助も慌てて立ち上がる。
「どこへ行く」
「分かりません。でも、ここにいても答えは見つからない」
「危険だ。鏡月斎の手の者がまだ」
「鏡月斎」
その名前を口にした時、千鶴の脳裏に断片的な映像が浮かんだ。白い着物の男、冷たい微笑み、薬草の匂い――しかし、それが記憶なのか幻覚なのか判断できない。
「千鶴、一人で行くな」
慎之助が手を伸ばした時、境内の向こうから足音が聞こえてきた。複数の人間が近づいている。
「見つかった」
慎之助は千鶴の手を取り、神社の裏手へと向かった。しかし千鶴の足は重く、現実感のない夢の中を歩いているような感覚だった。
追跡者たちの声が次第に近づいてくる。その中に、聞き覚えのある声が混じっていた。
「千鶴さん、もう逃げるのはおやめなさい」
鏡月斎の声だった。千鶴は振り返りたい衝動に駆られたが、慎之助に引かれて走り続けた。
「あなたの探している答えは、私のところにあります」
その声が、千鶴の心の奥深くに響いた。本当に、この男が答えを知っているのだろうか。自分が何者で、何が真実で、何を信じればよいのか――
千鶴の足が止まった。慎之助が振り返る。
「千鶴?」
「慎之助さん、もし私が戻らなかったら」
「何を言っている」
「覚えていてください。本当の私を」
千鶴は慎之助の手を振り払い、追跡者たちの方へと向かって歩き始めた。
「千鶴!」
慎之助の叫び声が夜明けの空に響いた時、千鶴の意識は再び混沌の中へと沈んでいった。