薄暗い隠し通路を抜け出した千鶴の前に立っていたのは、確かに慎之助の顔をした男だった。しかし、心魂草の幻覚に何度も騙された千鶴は、もはや自分の目を信じることができずにいた。
「千鶴、無事だったか」
男は千鶴に向かって歩み寄ろうとしたが、千鶴は後ずさりした。その動きを見て、男は足を止める。
「そうか、お前もあの薬草の影響を受けているのだな」
男の声には深い悲しみが込められていた。千鶴は震え声で答えた。
「あなたは誰ですか。慎之助さんの顔をしていても、もう騙されません」
男は静かに微笑んだ。その表情には、千鶴がこれまで見てきた偽の慎之助にはない、深い優しさがあった。
「覚えているか、千鶴。お前が七つの頃、薬草を採りに行って道に迷った時のことを」
千鶴の心臓が高鳴った。その記憶は確かにあった。しかし、心魂草は人の記憶を読み取ることもできるのではないか。
「それだけでは信じられません。誰でも知り得ることかもしれない」
「そうだな」男は頷いた。「では、これはどうだ。お前が十二の春、父上の薬草園で白い花を摘んでいた時、お前は泣いていた。理由を聞いても答えなかった。だが後になって、お前は母上のことを思い出していたのだと打ち明けてくれた」
千鶴の目に涙が浮かんだ。その記憶は他の誰も知らない、二人だけの秘密だった。
「慎之助さん...本当に、あなたなのですね」
「ああ」慎之助は安堵の表情を浮かべた。「長い間、お前を探していた。途中で何度も偽の千鶴に騙されそうになったが、お前との記憶が俺を支えてくれた」
千鶴は慎之助の胸に飛び込んだ。慎之助の腕に包まれた瞬間、これまでの恐怖と不安が一気に溢れ出した。
「怖かったです。何が本当で何が偽物なのか、自分でも分からなくなって」
「もう大丈夫だ」慎之助は千鶴の髪を優しく撫でた。「俺がついている」
しかし、千鶴は慎之助の胸の中で、ふとあることに気づいた。
「慎之助さん、怪我をされているのですね」
慎之助の着物の袖から血がにじみ出ているのが見えた。
「ここまで来るのに、鏡月斎の手下どもと戦った。大したことはない」
「いえ、手当をしなければ」
千鶴は慎之助を近くの石段に座らせ、携えていた薬草で簡単な手当てを始めた。その手つきを見ながら、慎之助は呟いた。
「変わらないな、お前は。いつも他人のことばかり気にかけている」
「当たり前です。大切な人が怪我をしているのに、放っておけるはずがありません」
千鶴の言葉に、慎之助の頬が僅かに赤らんだ。
「大切な人、か」
「はい」千鶴は恥ずかしそうに頷いた。「この迷宮で、慎之助さんがどれほど大切な存在なのか、よく分かりました」
手当てを終えた千鶴に、慎之助は真剣な表情で向き合った。
「千鶴、鏡月斎はまだこの屋敷にいる。お前を連れて逃げたいが、あの男を放置すれば、また新たな被害者が生まれるだろう」
「分かっています」千鶴は立ち上がった。「お雪さんが命をかけて私を逃がしてくれました。その思いを無駄にはできません」
「お雪という娘が?」
千鶴は慎之助に、これまでの経緯を手短に説明した。お雪の犠牲、心魂草の恐ろしい力、そして鏡月斎の狂気について。
「そうか...その娘の分まで、俺たちがやらねばならないということだな」
慎之助は刀の柄に手をかけた。その時、屋敷の奥から太鼓の音が響いてきた。
「あの音は...」
「鏡月斎が何かを始めようとしているのかもしれません」
二人は顔を見合わせた。千鶴は慎之助の手を握った。
「今度こそ、一緒に真実を暴きましょう」
「ああ、もう二度とお前を一人にはしない」
太鼓の音はどんどん大きくなっていく。それに合わせるように、屋敷の各所から人の声が聞こえ始めた。しかし、それは人間の声とは思えないほど歪んでいた。
「まさか、実験体がまだ他にも...」
慎之助の呟きに、千鶴は身震いした。お雪のような被害者が、まだ大勢いるというのだろうか。
「急ぎましょう。もう時間がないかもしれません」
二人は屋敷の奥へと向かった。廊下の壁に掛けられた鏡には、もはや偽の姿は映らない。千鶴と慎之助の本当の姿だけが、暗闇の中で寄り添うように映っていた。
屋敷の最深部に近づくにつれ、異様な匂いが漂ってきた。薬草の匂いに混じって、何か腐敗したような悪臭がする。
「千鶴、鼻と口を覆え。毒性のある煙かもしれない」
慎之助に言われ、千鶴は袖で顔を覆った。二人は慎重に足を進める。
やがて、大きな扉の前に辿り着いた。扉の向こうから、鏡月斎の声が聞こえてくる。
「さあ、最後の実験の時間だ。お前たちの心魂は、永遠に俺のものとなるのだ」
千鶴と慎之助は互いを見つめ合った。この扉の向こうに、全ての答えが待っている。そして、これまでに経験したことのない危険も。
慎之助は千鶴の肩に手を置いた。
「怖いか?」
「はい」千鶴は正直に答えた。「でも、慎之助さんがいれば大丈夫です」
「俺もだ。お前がいれば、どんな幻覚にも惑わされない」
二人は深く息を吸い、扉に手をかけた。