施設の奥深くで響く轟音に、慎之助は振り返った。千鶴が鏡月斎と対峙している部屋から伝わってくる異様な気配に、胸が締め付けられる。だが今は、彼女のもとへ駆けつけることができない。

 「同心殿、どちらへ向かわれるおつもりか」

 黒装束の男が慎之助の前に立ちはだかった。組織の残党の一人で、鏡月斎への忠誠を捨てきれずにいる者たちだ。その手には、禁断の薬草から作られた毒針が握られている。

 「邪魔をするな。千鶴を―白川千鶴を守らねばならぬ」

 慎之助は腰の刀に手をかけた。同心としての職務を全うするならば、この施設を包囲し、組織の全容を解明することが先決だ。だが今、彼の心を支配しているのは千鶴への想いだけだった。

 「ほう、同心殿ともあろうお方が、一人の女子のために職務を忘れられるとは」

 男の嘲笑が廊下に響く。慎之助は歯を食いしばった。確かに男の言う通りだ。自分は今、同心としてではなく、一人の男として行動している。

 千鶴との幼い頃の記憶が蘇った。薬草を摘みに行った山で、彼女が毒蛇に噛まれそうになったとき。とっさに身を投げ出して彼女を守ったあの日から、自分の心は決まっていたのかもしれない。

 「職務を忘れているのではない」慎之助は静かに言った。「私にとって最も大切なものを守ることこそが、私の使命なのだ」

 刀が鞘から抜かれる音が、石造りの廊下に冷たく響いた。黒装束の男が毒針を構える。

 「愚かな」男が呟いた瞬間、慎之助は踏み込んだ。

 剣戟の音が廊下に響く。慎之助の剣技は確かだったが、相手もただの人間ではない。心魂草の力で肉体を強化されているのか、異常な俊敏さで攻撃を仕掛けてくる。

 毒針が慎之助の頬をかすめた。ひりりとした痛みと共に、軽い眩暈を感じる。毒が回り始めているのだ。

 (千鶴...)

 彼女の笑顔が脳裏に浮かんだ。薬草の知識を語るときの真剣な表情、人を救うために自分を省みない献身的な姿。そして、父を失った悲しみに暮れながらも、決して諦めることのない強い意志。

 「お前たちのような外道に、彼女を渡すわけにはいかぬ」

 慎之助は気力を振り絞り、渾身の一撃を放った。刀身が男の胸を貫く。男は信じられないという表情で慎之助を見詰め、そのまま崩れ落ちた。

 だが喜ぶ暇はない。廊下の向こうから、さらに多くの足音が近づいてくる。組織の残党たちが集まってきているのだ。

 その時、千鶴がいる部屋の方向から、まばゆい光が漏れ出した。続いて、何か大きなものが崩れる音が響く。

 「千鶴!」

 慎之助は走り出した。迫りくる敵のことなど、もはや頭になかった。ただ一心に、愛する人のもとへ向かう。

 廊下を駆け抜けながら、慎之助は自分の心の変化を感じていた。同心になったのは、正義を貫き、人々を守るためだった。その志は今も変わらない。だが今、自分にとって最も守るべき人が明確になった。千鶴こそが、自分の正義の根源なのだ。

 彼女を失えば、自分の正義も色褪せてしまう。彼女がいるからこそ、自分は人を守る意味を理解できる。

 部屋の扉が見えた。光は既に収まっているが、中からは複雑な薬草の香りが漂ってくる。心魂草の匂いだ。

 「千鶴! 無事か!」

 扉を押し開けると、そこには信じられない光景が広がっていた。千鶴が鏡月斎と並んで立っており、その前には見知らぬ老人の霊らしき姿がある。千鶴の父、道玄に違いない。

 「慎之助さん」千鶴が振り返った。その瞳には涙が光っているが、同時に安堵の色も浮かんでいる。「お怪我はありませんか」

 「私のことはよい。君こそ...」

 慎之助は千鶴の側に駆け寄り、そっと肩に手を置いた。彼女の身体が小刻みに震えているのを感じる。きっと父との再会で、様々な感情が渦巻いているのだろう。

 「慎之助よ」道玄の霊が口を開いた。「千鶴を頼む。この子には、心魂草の正しい力を世に広める使命がある。だが一人では背負いきれぬ重荷だ」

 慎之助は深く頭を下げた。「お任せください。この命に代えても、千鶴を守り抜きます」

 「それだけではない」道玄の声が優しく響く。「千鶴を支え、共に歩んでほしい。この子には、君のような真っ直ぐな心を持った人が必要なのだ」

 千鶴が慎之助を見上げた。その瞳に、感謝と信頼の光を見て取った慎之助は、改めて心に誓った。同心としての職務も大切だが、何より千鶴と共に歩む人生を選ぼう。

 その時、施設全体を揺るがすような振動が起こった。鏡月斎が顔を上げる。

 「まずい、心魂草の力が暴走している。この施設はもたない」

 道玄の姿が薄くなり始めた。「時間がない。千鶴、秘伝書は蔵の奥、薬草箱の底に隠してある。必ずそれを見つけ、正しい道を歩むのだ」

 「父上...」

 千鶴が手を伸ばそうとした瞬間、道玄の姿は光となって消えた。同時に、天井から石の欠片が降ってくる。

 「急ぎましょう」慎之助は千鶴の手を取った。「ここは危険です」

 三人は急いで部屋を出た。廊下では、崩落が始まっている。組織の残党たちも、もはや戦うどころではなく、必死に逃げ惑っている。

 慎之助は千鶴の手を握り締めながら、出口へ向かって走った。これまで同心として歩んできた道とは違う、新たな人生が始まろうとしている。千鶴と共に、心魂草の謎を解き明かし、人々を救う道を歩もう。それこそが、自分の新しい正義なのだ。

 外の世界が見えた時、慎之助は確信した。どんな困難が待ち受けていても、千鶴と共になら乗り越えられる。

薬草師と歪んだ鏡の迷宮

39

慎之助の選択

霧島 彩乃

2026-04-28

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第39話 慎之助の選択 - 薬草師と歪んだ鏡の迷宮 | 福神漬出版