朝靄が立ち込める小道を、千鶴は足音を忍ばせながら急いだ。昨夜の出来事が夢ではなかったことを物語るように、着物の裾には竹の葉がまだ絡みついている。見張りの男の顔は朧げだったが、自分の正体が露見した事実は重くのしかかっていた。
薬草問屋の白川家の暖簾をくぐると、千鶴はようやく息をついた。しかし安堵は束の間、背筋に冷たいものが走る。もしも鏡月斎の一味がここまで追ってきたら――父亡き後、この家には自分一人しかいないのだ。
「慎之助さんに知らせなければ」
千鶴は奥の部屋へ向かいながら呟いた。だが約束の刻限まではまだ時がある。それまでの間、何かできることはないだろうか。
ふと、父の書斎に足が向いた。父の死後、整理はある程度済ませたつもりだったが、今ならば見落としたものがあるかもしれない。鏡月斎という名前、そして心魂草という禁断の薬草について、父が何か知っていた可能性もあった。
書斎の戸を開けると、朝日が差し込んで机上の塵が舞い踊った。千鶴は改めて父の机を調べ始める。引き出しの奥、文箱の底、本の間――丁寧に探していくうちに、ふと違和感を覚えた。
机の奥行きが、他の家具に比べて浅いような気がする。千鶴は机の横から覗き込み、裏板を叩いてみた。鈍い音が響く。
「もしや」
手探りで裏板の縁を辿ると、小さな出っ張りがあった。それを押すと、板が音もなく滑り、隠し引き出しが現れた。
中には、見慣れない筆跡で書かれた一通の手紙があった。封は切られておらず、宛名には「千鶴へ」と父の文字で記されている。千鶴の手が震えた。
封を切ると、確かに父の字で綴られた文面が現れた。
『千鶴へ
この手紙を読んでいるということは、私にもしものことがあったか、あるいは君が薬草の暗い一面に触れることになったのだろう。
心魂草という名前を聞いたことがあるだろうか。古くから語り継がれる幻の薬草だが、実はそれは実在する。私も若い頃、一度だけその存在を知る機会があった。
心魂草は人の心を深く揺り動かす力を持つ。正しく用いれば心の傷を癒やす良薬となるが、悪用すれば人の意志を操り、現実と幻の境界を曖昧にしてしまう恐ろしい代物でもある。
江戸の片隅に、この草の力を悪用する者たちがいる。彼らは「鏡花会」と名乗り、人を実験台にして禁断の研究を重ねている。その頭目は医師を名乗る男で、人の心を意のままに操ることを目論んでいる。
私は長年、この組織の存在を知りながらも、証拠不十分で手出しができずにいた。しかし最近、彼らの活動が活発化していることを感じている。もし君がこの手紙を読むような事態になったなら、決して一人で立ち向かってはならない。信頼できる者と共に行動し、何よりも自分の身を大切にするのだ。
心魂草の真の力は、人を救うことにある。それを忘れてはならない。
愛する娘へ、父より』
千鶴は手紙を読み終えると、しばらく呆然と座り込んでいた。父が知っていた。すべてを知っていたのだ。鏡花会、そして心魂草の恐ろしさも。
「なぜ、教えてくれなかったの」
涙が頬を伝った。父の優しさが、かえって自分を危険にさらしてしまったのではないかという思いが胸を締めつける。
と、その時、表の方から footsteps の音が聞こえてきた。慎之助にしては早すぎる。千鶴は急いで手紙を懐に収めると、そっと書斎の戸の隙間から外を覗いた。
見覚えのない男が二人、店の前で何やら話し込んでいる。そのうちの一人は、昨夜竹林で見た見張りの男に似ていた。千鶴の血が凍りついた。
「白川の薬草問屋はここだな」
「娘はいるのか」
「さあな。だが鏡月斎様の指示だ。見つけ次第、お連れしろとのことだ」
男たちの会話が聞こえてくる。千鶴は息を殺して身を潜めた。このままでは捕まってしまう。しかし裏口から逃げ出すにも、男たちに気づかれる危険がある。
その時、千鶴の脳裏に父の薬草の知識が蘇った。眠り草は昨夜使ってしまったが、他にも使える薬草があるはずだ。千鶴は静かに立ち上がると、薬草を保管している蔵へ向かった。
蔵の中で、千鶴は迷霧花の粉を取り出した。これを燻らせば、一時的に方向感覚を失わせることができる。男たちの注意を逸らすには十分だろう。
小さな火鉢に炭を熾し、そこに迷霧花の粉を振りかける。白い煙がゆらゆらと立ち上がった。千鶴はそれを風上に置き、煙が表の方へ流れるのを待った。
やがて男たちの声に変化が現れた。
「おかしいな、道がよく分からなくなった」
「こっちが表だったか?」
混乱している隙に、千鶴は裏口から外へ出た。迷霧花の効果は長くは続かない。急いで慎之助のところへ向かわなければならない。
路地を抜けながら、千鶴は父の手紙の内容を反芻していた。鏡花会――鏡月斎が率いる組織の名前が分かったことは大きな収穫だった。しかし同時に、相手の正体がより鮮明になったことで、事態の深刻さも増していた。
約束の場所である神社に着くと、慎之助がすでに待っていた。その顔には昨夜と同じ心配の色が浮かんでいる。
「千鶴、無事だったか」
「慎之助さん、大変なことが分かったの」
千鶴は息を切らしながら、父の手紙のことを話し始めた。慎之助は真剣な表情で聞き入っている。
「鏡花会、か。初めて聞く名前だが、もし君のお父様が知っていたということなら、相当古くからある組織なのかもしれない」
「それに、さっき家に男たちが来ていたの。私を探しているみたい」
慎之助の顔が険しくなった。
「それは危険だ。もう君一人では行動させられない」
「でも、この手紙には他にも気になることが書いてあるの」
千鶴は手紙の最後の部分を思い出していた。『心魂草の真の力は、人を救うことにある』という父の言葉が、何か重要な意味を持っているような気がしてならない。
「お雪さんを救う手がかりが、この草にあるのかもしれない」
慎之助は頷いた。
「しかし、まずは君の安全を確保することが先決だ。今夜は私の知り合いの家に身を寄せてもらおう」
「いえ、それよりも」千鶴は父の手紙を握りしめた。「父の手紙には、もう一つ気になることが書いてあったの」
「何だ?」
「心魂草について詳しく知る人物のことが示唆されているような気がするの。父の古い友人で、遠くに住んでいる叔父のことが別の箇所に」
千鶴は手紙の行間に込められた父の意図を読み取ろうとしていた。直接的には書かれていないが、何かの手がかりがあるはずだ。
だが、それを確かめる前に、まずは鏡花会の追っ手から逃れなければならない。千鶴は空を見上げた。夕暮れが近づいている。長い夜が、再び始まろうとしていた。