桜の花びらが舞い散る午後、茶房の扉を勢いよく開けて春香が飛び込んできた。頬を薄紅色に染めたその表情は、まるで恋する乙女そのものだった。
「楓ちゃん! 聞いて聞いて!」
春香の弾むような声に、楓は淹れかけていた紅茶の手を止めて振り返った。親友の顔には見たことのないような輝きがあり、それだけで何が起こったのかが察せられた。
「どうしたの、そんなに慌てて」
「実は昨日、素敵な人と出会っちゃったの!」
春香は興奮を抑えきれない様子で、カウンター席に腰を落ち着けると一気に話し始めた。商店街で偶然ぶつかった男性が、落とした荷物を拾ってくれたのだという。その時の優しい笑顔に心を奪われ、気がついたら連絡先を交換していたらしい。
「それで今度、お茶でもしませんかって誘われて。楓ちゃん、どうしよう、こんなドキドキするの初めて」
楓は微笑みながら紅茶を春香の前に置いた。親友の恋を素直に喜びたい気持ちと、同時に胸の奥に芽生えた複雑な感情に戸惑っていた。
「それは素敵ね。どんな人なの?」
「佐々木拓海さんって言うの。出版社で編集のお仕事をしてるんですって。背が高くて、優しそうな目をしてて」
春香の話を聞きながら、楓は無意識のうちに心を読み取る力を使いそうになっている自分に気づいた。これまで当たり前のように使っていた能力が、親友の恋愛に対してためらいを感じさせる。相手の心を知ってしまえば、春香の純粋な恋心を裏切ることになるのではないだろうか。
「楓ちゃん、実は相談があるの」
「何?」
「その拓海さんと今度一緒にお茶するんだけど、ここを使わせてもらえる? 雰囲気がいいから、きっと喜んでもらえると思うの」
楓の胸に小さな痛みが走った。これまで春香と二人だけの特別な場所だった茶房に、知らない男性が入ってくる。それは当然のことなのに、なぜか寂しさを感じてしまう。
「もちろんよ。いつでも使って」
翌日の夕方、春香は約束通り拓海という男性を連れてやってきた。三十代前半と思われる落ち着いた雰囲気の男性で、確かに春香が言った通り優しそうな人だった。
「はじめまして、佐々木です。春香さんにこちらの素敵な茶房のことを聞いて、ぜひ伺いたいと思っていました」
丁寧な挨拶を交わしながら、楓は彼の人柄の良さを感じ取った。しかし同時に、無意識のうちに彼の心の奥を探ろうとしている自分がいることに気づく。
二人は窓際の席に座り、楓が淹れたダージリンを飲みながら楽しそうに会話を続けた。春香の笑い声がいつもより弾んでいるのが聞こえる。
「本当に落ち着く場所ですね。春香さんがいつもここの話をしてくださるので、どんなところかと思っていました」
拓海の何気ない言葉に、楓の心がざわめいた。彼の心を読まずにはいられない衝動に駆られる。春香への想いは本物なのか、それとも単なる興味なのか。
しかし楓は必死にその衝動を押し殺した。親友の恋路を邪魔する権利など自分にはない。たとえ相手の本心を知ることができても、それは春香自身が見極めるべきことだった。
二人が帰った後、楓は一人でカップを洗いながら複雑な気持ちに浸っていた。春香の幸せを願う気持ちは嘘ではない。けれど同時に、親友が自分から離れていくような寂しさも感じている。
翌週、春香は再び拓海と一緒に茶房を訪れた。今度は手を繋いでいる。二人の関係が進展していることは明らかだった。
「楓ちゃん、彼と付き合うことになったの」
春香の報告に楓は心からの笑顔を浮かべた。しかし、拓海が席を外した隙に、ふと彼の心の声が聞こえてしまった。
『春香は可愛いけど、少し重いな。まあ、しばらくは付き合ってみるか』
楓の顔が青ざめた。聞いてはいけないことを聞いてしまった。春香の純粋な恋心とは裏腹に、拓海の想いは軽薄なものだった。
「どうしたの? 顔色が悪いけど」
「ううん、何でもない」
楓は必死に平静を装った。この事実を春香に伝えるべきかどうか、激しく迷った。親友を傷つけることになるかもしれない。しかし放っておけば、春香はもっと深く傷つくことになるかもしれない。
その夜、楓は一人で茶房に残り、時雨のことを想った。彼が抱える過去の重さ、そして自分が持つ能力の重さ。人の心を読めることが、必ずしも幸せをもたらすわけではないということを、改めて思い知らされた。
翌朝、春香が一人でやってきた。いつもの明るさが影を潜め、どこか沈んだ表情をしている。
「楓ちゃん、昨日拓海さんと別れたの」
「え?」
「なんとなく違和感があって。私のこと、本気で好きじゃないんじゃないかって思えてきて」
春香の女の勘の鋭さに、楓は驚いた。能力を使わなくても、本当の想いは伝わるものなのかもしれない。
「辛くない?」
「うん、辛い。でも、嘘の関係を続けるよりはいいと思う」
春香は涙を浮かべながらも、どこか晴れやかな表情をしていた。
「楓ちゃんがいてくれるから、私は大丈夫。ずっと変わらない友達がいるって、こんなに心強いことはないもの」
その言葉に、楓の胸が温かくなった。能力があってもなくても、大切なのは相手を思いやる気持ちなのだと気づく。
窓の外では桜の花びらが風に舞い、新しい季節の始まりを告げていた。そして楓は、遠くから自分を見つめる時雨の姿を感じ取っていた。