朝の茶房に響く足音は、いつもより重く急いていた。楓は昨夜の時雨の告白を反芻しながら、機械的にお湯を沸かしていた。季節を司る存在、季節の守護者、そして禁じられた愛——どれも現実離れした話だったが、胸の奥で何かが共鳴するような感覚は否定できなかった。
扉のベルが鳴り、春香が駆け込んできた。その後ろには商店街の八百屋の田中さん、書店の山田さん、そして肉屋の佐藤さんまでもが続いている。
「楓ちゃん、大変よ」春香の声は切迫していた。「商店街全体に変な噂が流れているの。あなたが魔女だとか、この店が呪われているとか」
楓の手が震えた。湯呑みが音を立てて受け皿に当たる。
「そんな馬鹿な話があるか」田中さんが憤慨した声を上げた。「楓ちゃんがどれだけこの街の人たちを支えてきたか、みんな知っているじゃないか」
山田さんも頷く。「私の娘が受験で悩んでいた時、楓さんのお茶を飲んで心が軽くなったって言っていました。魔女だなんて、とんでもない」
佐藤さんは腕組みをして言った。「誰が流しているんだ、そんな嘘を。許せん」
楓は困惑していた。まさか、時雨の話が現実のものとなって現れているとは思わなかった。
「皆さん、ご心配をおかけして——」
「謝ることなんてない」春香が楓の手を握った。「私たちはあなたを信じているから」
その時、店の外が急に暗くなった。まるで分厚い雲が太陽を覆い隠したかのように。しかし空を見上げると、雲一つない青空が広がっているはずなのに。
扉が開き、黒いスーツを着た男性が入ってきた。年齢は四十代ほどだろうか。一見普通のサラリーマンのように見えるが、その瞳には底知れない冷たさがあった。
「失礼します。私は都市開発公社の者ですが」男は名刺を差し出した。「この建物について、少しお話があります」
楓は名刺を受け取ったが、文字が滲んで見えない。まるで水に濡れたかのように。
「どのような——」
「古い建物は危険ですからね。特に、変な噂が立っているような場所は」男の口元に薄い笑みが浮かんだ。「立ち退きを検討されてはいかがでしょうか」
商店街の人々がざわめいた。田中さんが前に出る。
「何の権利があって、そんなことを言うんだ」
「権利?」男は振り返った。「私たちには、街の安全を守る義務があります。危険な存在は排除しなければ」
その瞬間、店内の温度が急激に下がった。楓の息が白くなり、窓ガラスに霜が付き始める。これは時雨の力とは明らかに違う、禍々しい冷気だった。
「やめて」楓が立ち上がった時、春香が楓の前に立ちはだかった。
「楓ちゃんに何をするつもり?」
男は驚いたような表情を見せた。「人間が、我々に逆らうとは」
田中さんも春香の隣に並んだ。「楓ちゃんは私たちの大切な仲間だ。誰にも渡さん」
山田さん、佐藤さんも加わる。すると不思議なことに、冷気が和らいでいく。
「馬鹿な」男が呟いた。「人間の絆如きが、我々の力を——」
扉のベルが再び鳴り、今度は商店街の他の店主たちも入ってきた。魚屋の鈴木さん、花屋の井上さん、パン屋の高橋さん。皆、楓を心配そうに見つめている。
「楓さん、大丈夫ですか」井上さんが声をかけた。
「みんなで楓ちゃんを守りましょう」高橋さんも言った。
店内に温かい空気が戻ってきた。それは暖房の温かさとは違う、人の心が作り出す優しい暖かさだった。楓の目に涙が溢れる。
男の顔が歪んだ。「まさか、人間たちの結束が我々の力を上回るなど——」
「そうですよ」
聞き慣れた声が響き、冬木老人が杖をつきながら現れた。
「人の心が作り出す力は、どんな超自然的な力よりも強いものです。それを忘れてしまった者たちに、未来はありません」
男は後ずさりした。「冬木——まだ生きていたのか」
「私は死にませんよ。この街と、この子たちがいる限りは」老人は楓を優しく見つめた。「楓さん、思い出しましたか?あなたの本当の力を」
楓は商店街の人々に囲まれて立っていた。皆が自分を守ろうとしてくれている。その事実が胸を熱くした。
「私の力は——」楓が言いかけた時、店の扉が勢いよく開いた。
時雨だった。息を切らしており、どこか焦ったような表情をしている。
「楓、大丈夫か」彼の視線が黒いスーツの男に向けられた。「やはり、来ていたのか」
「時雨——」男が歯軋りした。「裏切り者め」
「僕は誰も裏切っていない。ただ、愛する人を守りたいだけだ」時雨の周りに春の風が舞った。桜の花びらが宙に舞い踊る。
男が後退する。「人間と季節神の結束など、認めるものか」
「認めるも何も」春香が言った。「私たちはただ、大切な人を守っているだけよ」
商店街の人々が頷く。その結束した意志が、見えない力となって店内を満たしていく。
楓は理解した。自分の力は特別なものではない。人と人を繋ぐ、心の架け橋となることこそが、自分の本当の使命なのだと。
「ありがとう、皆さん」楓が声に出すと、茶房全体が優しい光に包まれた。「私は、皆さんがいてくれるから強くいられるんです」
男の姿が薄れていく。「覚えていろ——これで終わりではない」
そして消えた。店内に平穏が戻る。
時雨が楓に歩み寄った。「楓、君は思い出したんだね。守護者としての真の力を」
「ええ」楓は微笑んだ。「一人では何もできない。でも、皆がいれば——」
商店街の人々が温かい拍手を送った。春香が楓を抱きしめる。
「よかった、本当によかった」
冬木老人が杖でトントンと床を叩いた。「では、お茶でもいただきましょうか。今日は特別な日ですから、特別なお茶を」
楓は皆のためにお茶を淹れ始めた。その手つきに迷いはもうなかった。これからも、この茶房で人々の心を繋いでいこう。時雨と共に、そして皆と共に。
しかし、窓の外の商店街の向こうに、不穏な影がちらりと見えたのを、楓は見逃さなかった。