秋の深まりとともに、楓のお腹は少しずつふくらみを見せ始めていた。茶房の常連客たちも、楓の変化に気づき、温かい言葉をかけてくれる。今日も午後のひととき、春香が顔を出して楓の体調を気遣ってくれていた。
「楓、最近顔色がいいわね。妊娠って女性を美しくするって本当なのね」
「ありがとう、春香。でも朝はまだつらくて」
楓は苦笑いを浮かべながら、カウンターの奥にある小さな棚に目をやった。そこには、第3話で時雨が初めて茶房を訪れた日に持参した、あの美しい音楽箱が静かに佇んでいる。
オルゴールの繊細な細工と、蓋を開けると流れる懐かしいメロディー。楓は何度となくその音色に癒されてきたが、なぜか時雨はその音楽箱について詳しく語ろうとしなかった。
「そういえば」楓は春香に声をかけた。「あの音楽箱のこと、時雨さんに聞いてみようかしら」
「音楽箱?」春香は首をかしげる。
「ほら、あそこにある」楓は棚を指差した。「時雨さんが初めていらしたとき、なぜか持っていらして。でも由来を聞こうとすると、いつもはぐらかされるの」
その時、茶房の扉がそっと開いた。秋の風とともに現れたのは、いつものように静かな微笑みを浮かべた時雨だった。
「こんにちは、楓」
「あら、時雨さん。ちょうどお話ししていたところよ」
時雨の視線が、楓の指差す音楽箱に向けられた瞬間、その表情に微かな動揺が走った。
「時雨さん」楓は立ち上がり、音楽箱を手に取った。「この音楽箱のこと、教えてくれませんか? ずっと気になっていたんです」
時雨は一瞬ためらうような表情を見せたが、やがて深く息をついた。
「実は」時雨の声が少し震えていた。「それは、君への贈り物として作ったものなんだ」
「私への?」楓の目が見開かれた。
「でも、まだ私たちは出会っていなかったはず」春香が困惑している。
時雨は静かに椅子に腰かけ、遠い記憶を辿るような眼差しで音楽箱を見つめた。
「季節神である僕には、時として未来の一端が見えることがある。数年前、夢の中で君に出会ったんだ、楓」
楓は息を呑んだ。音楽箱を抱きしめながら、時雨の言葉に耳を傾ける。
「夢の中で、君は一人でこの茶房にいた。寂しげに窓の外を見つめている君の姿を見て、僕の心は激しく揺れ動いた。目が覚めた後も、君の面影が頭から離れなかった」
時雨の声は次第に温かみを帯びてきた。
「それで、いつか君に会えたときのために、この音楽箱を作ったんだ。君を癒し、君の心に寄り添えるようなメロディーを込めて」
「そんな」楓の目に涙が浮かんだ。「そんな前から」
「でも実際に君に会ったとき、どう渡していいか分からなくて。だから、自然に君の生活に溶け込ませようと思った」
時雨は立ち上がり、楓の前に歩み寄った。
「君が初めてその蓋を開けて、メロディーに微笑んだとき、僕の長い想いがようやく届いたような気がした」
楓は音楽箱の蓋をそっと開いた。美しいメロディーが茶房に響く。その音色が、今まで以上に深く心に染み入った。
「この曲は」楓が震え声で尋ねた。
「君のための曲だよ。君の優しさ、君の温かさ、君の全てを表現したつもりだった」
春香も感動に涙ぐんでいる。
「なんて素敵な話なの。運命って本当にあるのね」
楓は時雨の手を取った。
「ありがとう。こんなに長い間、私のことを想っていてくれて」
「君に出会えて、君と結ばれて、そして今、新しい命まで授かった。僕たちの運命は、この音楽箱から始まったのかもしれない」
時雨の手が楓の頬に触れた。
「でも、実はもう一つ秘密があるんだ」
「まだあるの?」楓は驚いた。
「この音楽箱には、もう一つの仕掛けがある。僕たちの子供が生まれたとき、新しいメロディーが流れるようになっているんだ」
「本当に?」
時雨は音楽箱の底面を指差した。そこには小さな水晶が埋め込まれている。
「新しい守護者の誕生を感知すると、この水晶が反応して、子守唄が流れる仕組みになっている」
楓は感動で胸がいっぱいになった。時雨の深い愛情と、細やかな心遣いに心を打たれる。
「あなたは本当に、すべてを計算していたのね」
「愛する人のためなら、どんな準備でもしたくなるものだよ」
その時、音楽箱から流れるメロディーが微かに変化した。いつものメロディーに重なって、新しい音色が響き始める。
「これは」楓が息を呑んだ。
「子守唄だ」時雨の声が感動に震えている。「もう反応している」
優しく包み込むような子守唄が、茶房を満たしていく。楓は無意識に自分のお腹に手を当てた。
「お腹の赤ちゃんも聞いているのね」
「きっと喜んでいるよ。父と母の愛の証を聞いて」
春香も涙を流しながら、二人を見守っている。
「楓、あなたたち本当に幸せね。こんなに深い愛で結ばれて」
楓は音楽箱を胸に抱き、時雨を見上げた。
「この音楽箱は、私たちの愛の歴史なのね。これからもずっと、家族の思い出を刻んでいくのでしょう」
「そうだね。僕たちの子供が大きくなったら、この話をしてあげよう」
子守唄の響く茶房で、夫婦は静かに抱き合った。音楽箱に込められた長年の想いが、ようやくその真の意味を現している。
秋の夕日が窓から差し込み、音楽箱の水晶がキラキラと光を反射した。それはまるで、新しい命の輝きを予感させるようだった。
「時雨さん」楓が音楽箱を見つめながらつぶやいた。「この子が生まれたら、この音楽箱の新しい物語が始まるのね」
「ええ、そして僕たちの愛も、また新しい章を迎える」
音楽箱から流れる子守唄は、まるで未来への希望を歌っているようだった。