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風待ち茶房と失われた季節

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親友の心配

水無月 雅 | 2026-03-24

秋の日差しが柔らかく店内に差し込む午後、楓は手慣れた様子でお客様が去った後のテーブルを拭いていた。昨日の出来事——認知症の老人との不思議な体験、そして時雨の言葉——が心の奥底で静かに波紋を広げている。

「季節の守護者」

 時雨の口から出たその言葉が、何度も頭の中で反響していた。自分が特別な存在だなんて、そんなことがあり得るのだろうか。

 入り口の風鈴が軽やかに鳴り、楓は顔を上げた。いつものように明るい笑顔を浮かべた春香が入ってくる。

「お疲れさま!今日は早く上がれたから、お茶しに来ちゃった」

「春香ちゃん、いらっしゃい。いつものカモミールティーでいい?」

「うん、お願いします」

 春香は楓の表情を見つめながら、いつものカウンター席に腰を下ろした。幼馴染だからこそ分かる、楓の微妙な変化。普段の穏やかな笑顔の奥に、何か思い悩んでいるような影が見える。

 楓は静かにティーカップを準備しながら、昨日の出来事を思い返していた。あの老人の心を読み取った時の感覚、店内に現れた夏祭りの幻影、そして時雨の謎めいた言葉。全てが現実離れしていて、まるで夢の中の出来事のようだった。

「楓ちゃん」

 春香の声で楓は現実に引き戻された。

「最近、なんだか様子が違うけど、何かあった?」

 楓の手が一瞬止まった。春香の心配そうな表情を見ると、胸の奥がきゅっと痛んだ。この優しい親友に、自分の身に起きている不可解な出来事を話すべきだろうか。

「実は……」

 楓は迷いながらも、昨日の出来事を春香に話し始めた。認知症の老人との出会い、心を読み取る不思議な体験、そして時雨という青年のこと。ただし、幻影が現れたことや季節を操る能力については、あまりにも非現実的すぎて口に出せなかった。

 春香は黙って聞いていたが、時雨の話になると表情が曇った。

「その時雨って人、なんだか怪しくない?急に現れて、楓ちゃんのことを『特別な存在』なんて言うなんて」

「でも、悪い人じゃないと思うの。むしろ、とても優しくて……」

「楓ちゃん」春香は真剣な表情で楓を見つめた。「あなたは人を疑うことを知らないから心配なの。その人のこと、本当に何も知らないんでしょう?」

 楓は言葉に詰まった。確かに時雨のことは何も知らない。どこから来て、何をしている人なのか、なぜ自分の前に現れるのか。全てが謎に包まれている。

「私はただ、楓ちゃんが傷つくのが心配なの」春香は優しく、でも心配そうに続けた。「最近のあなた、なんだか遠いところにいるような気がして」

 楓は胸が痛んだ。一番大切な親友を心配させてしまっている。でも同時に、時雨への想いが日に日に強くなっていることも認めざるを得なかった。

 その時、店の奥から足音が聞こえた。楓と春香が振り返ると、しばらく姿を見せていなかった冬木老人が静かに現れた。

「冬木さん!お久しぶりです」

 楓は驚きながらも、懐かしさで胸がいっぱいになった。この茶房の前の持ち主で、楓に店を託してくれた恩人。まるで仙人のような風貌の老人は、いつも的確な助言をくれる賢者のような存在だった。

「楓ちゃん、元気にしていたかね」

 冬木老人の優しい声に、楓は自然と笑顔になった。春香も丁寧に挨拶をする。

「こちらは私の親友の春香ちゃんです」

「ああ、よく話に聞いておる。楓ちゃんの大切な友達じゃな」

 冬木老人は春香に軽く会釈をしてから、いつものように店内をゆっくりと見回した。

「この店の雰囲気、少し変わったのう」

 楓は胸がどきりとした。冬木老人の鋭い観察眼は、きっと自分の変化も見抜いているに違いない。

「季節が深まったからでしょうか」

「いや、それだけではない」老人は楓を見つめた。「楓ちゃん、お前さんの中で何かが動き始めておるな」

 春香は老人の言葉に困惑したような表情を見せたが、楓の心臓は激しく鼓動していた。

「おそらく、運命の歯車が回り始めたのじゃろう」老人は続けた。「だが、楓ちゃん、気をつけなさい。力には必ず代償が伴う。大切なものを見失わないよう、心の軸をしっかりと持つのじゃ」

 楓は息を呑んだ。冬木老人は自分の能力のことを知っているのだろうか。

「特に」老人は意味深な表情で楓を見つめた。「季節を司る者との関わりは、予想以上に深い意味を持つ。軽はずみに心を許してはならん」

 時雨のことを言っているのは明らかだった。楓の顔が青ざめるのを見て、春香は心配そうに身を乗り出した。

「冬木さん、それはどういう……」

「今はまだ、詳しく話すべき時ではない」老人は静かに手を上げて制した。「ただ、楓ちゃん、お前さんには選択の時が来るじゃろう。その時は、自分の心に従うのじゃ。しかし、周りの人たちのことも忘れてはならぬ」

 老人はそう言うと、春香に向き直った。

「お嬢さん、楓ちゃんにとってお前さんのような友は何よりの宝じゃ。どんな時も、そばにいてやりなさい」

「はい」春香は戸惑いながらも、しっかりとうなずいた。

 冬木老人は店内をもう一度見回してから、奥へと消えていった。残された楓と春香は、しばらく無言だった。

「楓ちゃん」春香が口を開いた。「私には全部は理解できないけれど、あなたが何か大きな変化の中にいることは分かる。でも、どんなことがあっても、私はあなたの味方だから」

 楓の目に涙がにじんだ。こんなにも大切に思ってくれる友がいることが、今はとても心強く感じられた。

「ありがとう、春香ちゃん」

「ただ、約束して」春香は楓の手を握った。「一人で抱え込まないで。困った時は必ず相談して」

「うん、約束する」

 二人は微笑み合ったが、楓の心の奥では不安が渦巻いていた。冬木老人の警告、春香の心配、そして自分の中で日々強くなっている時雨への想い。全てがからみ合って、楓は自分がどこへ向かっているのか分からなくなっていた。

 夕方、春香が帰った後、楓は一人で店内を片付けながら考え込んでいた。時雨は今日も現れなかった。彼の存在が恋しくて仕方がないのに、同時に彼との関係が自分を未知の世界へ導いていることへの恐れもあった。

 突然、店の奥にある古い音楽箱が鳴り始めた。楓は驚いて振り返る。誰も触れていないのに、美しいメロディーが静かに店内に響いている。

 なぜだか分からないが、この音色を聞いていると時雨のことを思い出す。まるで彼からのメッセージのように感じられて、楓の胸は切なくなった。

 音楽箱の調べに包まれながら、楓は窓の外を見つめた。商店街に秋の夕暮れが降りて来て、街並みが黄金色に染まっている。

 明日、時雨はまた来るのだろうか。そして自分は、彼との関係をどう受け止めればいいのだろうか。

 楓の心は、まるで風待ちの船のように、静かに揺れ続けていた。

第5話 親友の心配 - 風待ち茶房と失われた季節 | 福神漬出版