十月の終わり、紅葉が街を彩り始めた午後のことだった。楓は茶房の奥で昨夜読んだ田中さんの詩集を閉じながら、時雨の言葉を反芻していた。「あなたには人の心を癒す特別な力がある」。彼が季節を司る存在だということよりも、自分の力について語った時の真剣な眼差しが印象に残っていた。

 ドアチャイムが鳴り、中年の女性が重い足取りで入ってきた。続いて、不機嫌そうな表情の高校生らしき男の子が後に続く。母子だということは一目で分かったが、二人の間に漂う緊張感は空気を重くしていた。

「いらっしゃいませ」

 楓が微笑みかけると、母親は困ったような笑顔を浮かべた。

「すみません、二人でお茶をいただけますでしょうか」

「もちろんです。こちらの席はいかがですか」

 楓は窓際の二人掛けテーブルへと案内した。息子は母親の向かいに座ると、すぐにスマートフォンを取り出して画面を見つめる。母親は申し訳なさそうに楓を見上げた。

「何かおすすめはありますか?」

「季節のブレンドティーはいかがでしょう。今の時期は、心を落ち着かせる効果のあるハーブを加えております」

 楓が二人を見つめると、心の奥にある感情が波のように伝わってきた。母親からは深い悲しみと戸惑いが、息子からは苛立ちと、その奥に隠された寂しさが感じられた。

「それでお願いします。息子にも同じものを」

 スマートフォンから顔を上げずに、息子がぼそりと呟いた。

「俺、紅茶嫌いなんだけど」

「そんなこと言わないで。せっかく二人で出かけたんだから」

「誰が二人で出かけたいなんて言った」

 母親の表情が曇る。楓は静かに厨房へ向かいながら、二人の心の距離を測りかねていた。まるで見えない壁が二人の間に立ちはだかっているようだった。

 紅茶を淹れながら、楓は時雨の能力について考えた。季節を操るということは、きっと人の心の季節も変えられるのではないだろうか。そして自分の力は、人の心の季節を読み取ることなのかもしれない。

 今、母親の心は枯れ葉が舞い散る晩秋のように寂しげで、息子の心は凍てついた冬のように固く閉ざされている。

 ティーポットとカップを載せたトレイを持って戻ると、二人は相変わらず無言のままだった。楓が紅茶を注ぐ音だけが静寂を破る。

「お母様、息子さんとはよくこちらのような場所にいらっしゃるんですか?」

 楓の何気ない問いかけに、母親は苦笑いを浮かべた。

「いえ、実は初めてなんです。この子と二人で出かけるのも久しぶりで」

「へえ、そうなんですね。息子さんはどんなことがお好きなんでしょう」

 息子は相変わらずスマートフォンから目を離さない。母親が代わりに答える。

「昔は本が好きで、よく一緒に図書館に行ったものなんですが。最近は何を考えているのか、さっぱり分からなくて」

 その時、楓の脳裏に一つのアイデアが浮かんだ。もし自分に本当に特別な力があるなら、今こそそれを使う時かもしれない。

「少しお待ちください」

 楓は店の奥へ向かい、書棚から一冊の本を取り出した。田中さんの詩集だった。そして、窓を少し開けて秋風を店内に招き入れる。不思議なことに、風は楓の思うとおりに二人のテーブルへ向かい、息子の髪を優しく撫でていった。

 息子がはっとして顔を上げる。

「何これ、急に風が」

「秋の風ですね。気持ちいいでしょう?」楓は微笑みながら詩集を息子の前に置いた。「よろしければ、こちらをご覧になってみてください。地元の方が書かれた詩集なんです」

 息子は怪訝そうな表情を浮かべたが、スマートフォンを置いて詩集を手に取った。ページをめくると、ある詩に目が留まる。

「『母の手』」

 息子が小さく詩のタイトルを読み上げた。母親の表情が変わる。

「読んでみてもいいですか?」

 息子は戸惑いながらも、声に出して詩を読み始めた。

「小さな手を包んでくれた 大きな手のぬくもりを 思い出すのは なぜか今ごろになってから」

 母親の目が潤む。息子も詩を読みながら、何かを感じ取っているようだった。

「その詩、素敵ですね」母親が静かに言った。「あなたが小さい頃、よく手を繋いで歩いたことを思い出します」

「覚えてる」息子がぼそりと答えた。「図書館の帰り道、僕が転びそうになると、いつもお母さんが手を差し伸べてくれた」

 楓は二人から少し離れた場所で、その光景を見守っていた。秋風が再び店内を巡り、今度は暖かい陽だまりのような温もりを運んでくる。まるで初秋の午後、親子が仲良く散歩していた頃の記憶を呼び起こすような、懐かしい風だった。

「お母さん」息子が顔を上げた。「最近、きつく当たってばかりでごめん。別に嫌いになったわけじゃないんだ」

「私こそごめんなさい。あなたのことを理解しようとせずに、昔のままでいてほしいと思っていました」

 二人の間の見えない壁が、少しずつ溶けていくのが楓にも分かった。母親の心に春の兆しが見え始め、息子の心の氷も溶け始めている。

「今度、また図書館に一緒に行かない?」母親が恐る恐る提案した。

「うん、たまにはいいかも」息子が小さく微笑んだ。

 楓は静かに二人のもとへ戻った。

「お代わりはいかがですか?」

「はい、お願いします」母親が答える。「それにしても、不思議ですね。さっきから、なんだか心が軽くなって」

「秋は変化の季節ですから」楓が微笑む。「人の心も、季節と一緒に変わっていくものなのかもしれません」

 息子が詩集を楓に返しながら言った。

「この詩、すごくいいですね。他にも読んでみたい本があるかも」

「いつでもいらしてください。季節ごとに、きっと心に響く一冊が見つかると思います」

 二人は最後まで紅茶を味わい、会計を済ませて帰っていった。ドア越しに見える彼らの後ろ姿は、来た時とは明らかに違って見えた。歩調を合わせ、時折言葉を交わしながら商店街を歩いていく。

 楓は片付けをしながら、今起こったことについて考えていた。あの風は偶然だったのだろうか。それとも、自分が無意識のうちに何かをしたのだろうか。

 夕暮れ時、再びドアチャイムが鳴った。振り返ると、時雨が穏やかな表情で立っていた。

「今日は随分と温かい風が吹いていましたね」

 彼の言葉に、楓は胸が高鳴った。

「あなたが?」

「いえ、あれは間違いなく楓さん、あなたの力です」

 時雨は楓の前に座ると、優しく微笑んだ。

「人の心に寄り添い、そっと背中を押してあげる。それがあなたの本当の力なのかもしれません」

 楓は頬を染めながら俯いた。自分の中に確かに何かが芽生え始めているのを感じていた。そして、それは時雨との出会いと深く関係しているような気がしてならなかった。

風待ち茶房と失われた季節

8

母子の絆

水無月 雅

2026-03-28

前の話
第8話 母子の絆 - 風待ち茶房と失われた季節 | 福神漬出版