その日の夜、修平は一人でピアノの練習をしていた。樹里の不可解な話を聞いてから、どうにも集中できずにいた。霊だの亡霊だの、馬鹿馬鹿しいと頭では思うのに、なぜか心の奥底で引っかかるものがあった。
「まったく、樹里のやつ……」
修平は鍵盤から手を離し、深くため息をついた。幼い頃から知っている樹里が嘘をつくような子でないことは分かっている。だからこそ、彼女の話に困惑していた。霊感が強いとは言っていたが、まさか本当にそんなものが見えているというのだろうか。
時計を見ると、既に夜の十時を回っている。普段なら帰宅する時間だが、今夜はなぜか足が向かなかった。樹里が言っていた通り、夜の練習室には何かがあるのだろうか。
修平は再び鍵盤に向き合い、ショパンのバラード第一番を弾き始めた。指が鍵盤を滑るように動き、美しい旋律が練習室に響く。音楽に集中することで、余計な考えを振り払おうとした。
しかし、演奏の途中で妙な違和感を覚えた。自分の弾いているメロディーに、別の音が重なって聞こえるような気がしたのだ。最初は隣の練習室からの音漏れかと思ったが、この時間にこの階にいるのは自分だけのはずだった。
修平は演奏を止め、静寂に耳を澄ませた。すると、確かにどこからかピアノの音色が聞こえてくる。それも、古い時代の楽器特有の、少しくすんだような音色だった。
「おかしいな……」
立ち上がって廊下に出ると、音は三号室の方から聞こえてくるようだった。修平は恐る恐る足音を殺しながら、その練習室に近づいた。ドアの小窓から中を覗くと、室内は真っ暗で誰もいない。しかし、音楽は確実に聞こえ続けている。
心臓が早鐘を打つのを感じながら、修平はドアノブに手をかけた。ゆっくりと扉を開くと、音楽が止んだ。電気をつけると、そこには古いアップライトピアノが一台あるだけで、他には何もなかった。
「気のせい……だよな」
そう呟きながら電気を消し、ドアを閉めようとした時だった。背後から、女性の低いため息が聞こえたのだ。修平は慌てて振り返ったが、廊下には誰もいない。
慌てて自分の練習室に戻り、ドアを閉めた修平は、額に浮かんだ冷や汗を拭った。まさか、本当に何かがいるというのだろうか。これまで超常現象など信じたことがなかった現実主義者の修平にとって、今夜の出来事は衝撃的すぎた。
それでも彼は、合理的な説明を見つけようと努めた。きっと建物の古い配管から音が漏れているのだろう。ため息のように聞こえたのも、風の音に違いない。そう自分に言い聞かせて、再びピアノに向き合った。
ところが、鍵盤に触れた瞬間、今度ははっきりとした異変が起こった。弾いてもいないのに、ピアノから和音が響いたのだ。それも、修平がよく知っているドビュッシーの「月の光」の冒頭部分だった。
修平は慌てて手を引っ込めた。ピアノは沈黙を取り戻したが、彼の心は激しく動揺していた。これは幻聴や錯覚では説明がつかない。確実に、超常的な何かが起こっている。
「まさか……樹里の言っていたことが……」
それまで頑なに否定してきた樹里の話が、急に現実味を帯びて感じられた。もしかすると、この建物には本当に霊が存在するのかもしれない。そして樹里は、そんな存在たちと実際に会話を交わしているのかもしれない。
修平は震える手でスマートフォンを取り出し、樹里にメッセージを送った。「今、大学にいる。話がしたい。来れる?」
数分後、樹里から返信が来た。「すぐ行く」
待っている間、修平は練習室の中を見回した。古いピアノ、楽譜台、椅子。見慣れた光景のはずなのに、今は全てが違って見える。まるで目に見えない誰かが、この空間を共有しているかのような感覚があった。
二十分ほどして、樹里が息を切らしながらやってきた。修平の顔色を見るなり、彼女は察したような表情を浮かべた。
「修平君、何があったの?」
「樹里……俺、今まで君のことを信じてなかった。ごめん」
修平は、先ほど体験した出来事を詳しく話した。樹里は黙って聞いていたが、話が終わると安堵したような表情を見せた。
「やっと分かってもらえた。私一人じゃ、どう対処していいか……」
「それで、君が会ったという霊たちは、今もここにいるのか?」
樹里は練習室の中を見回し、首を横に振った。
「今はいないみたい。でも、彼らは夜中によく現れるの。特にエドワードさんと静香さんは……」
「エドワード?静香?」
「19世紀のピアニストと、戦前の作曲家よ。二人とも、未完成の楽曲への想いで現世に留まっている」
修平は樹里の説明を聞きながら、自分の中で何かが変化していくのを感じた。これまで音楽は技術と理論の世界だと思っていたが、もしかするとそれを超えた、魂の領域があるのかもしれない。
「君は、彼らを助けようとしているのか?」
「そのつもり。でも、昨夜新たな霊が現れて……」
樹里は、狂気に満ちた少年の霊について話した。修平の表情が徐々に険しくなる。
「危険な存在かもしれないということか」
「ええ。だから一人で対処するのは難しいと思って……」
修平は長い間沈黙していた。現実主義者だった自分の世界観が根底から覆されようとしている。しかし、樹里を一人で危険にさらすわけにはいかなかった。
「分かった。俺も協力する」
樹里の目が輝いた。
「本当?」
「ああ。ただし、何か危険を感じたらすぐに逃げる。約束してくれ」
その時、練習室の温度が急激に下がった。二人の息が白くなり、ピアノから不協和音が響いた。樹里の顔が青ざめる。
「来た……」
修平も緊張した。目には何も見えないが、確実に何かがこの空間に現れたのを感じ取れる。これが、樹里が日常的に体験している世界なのだ。
そして暗闇の中から、少年の甲高い笑い声が響いてきた。