修平との約束から三日後の夜、樹里は再び夜の音楽大学の門をくぐった。今度は一人ではない。修平が少し離れたところから見守ってくれているという安心感が、彼女の背中を押していた。

 練習室棟の廊下に足を踏み入れると、いつものように冷たい空気が頬を撫でていく。樹里は深く息を吸い込み、心を落ち着けた。リョウを失った悲しみは今も胸の奥で疼いているが、それ以上に強い意志が彼女の中で燃えている。

 3番練習室の扉を開けると、エドワードが既にピアノの前に立っていた。彼の透明な手が鍵盤の上を滑るように動き、美しい旋律が室内に響いている。その音色は以前よりもどこか厳格で、冷徹な響きを帯びていた。

「来たな」

 エドワードが振り返ると、その青い瞳にはいつもの慇懃な優雅さではなく、鋭い光が宿っていた。

「私の指導は厳しいぞ。覚悟はできているのか?」

 樹里はしっかりと頷いた。

「はい。お願いします」

 エドワードの表情が一瞬だけ柔らかくなったが、すぐに元の厳格さを取り戻した。

「では、始めよう。まずはショパンの『英雄ポロネーズ』を弾いてみろ」

 樹里はピアノに向かい、指を鍵盤に置いた。力強い冒頭の和音を響かせると、エドワードが即座に止めた。

「駄目だ。その程度の覚悟で英雄が弾けるとでも思っているのか?」

 彼の声は氷のように冷たかった。

「音楽とは魂の叫びだ。お前の今の演奏からは、何も聞こえてこない。もう一度」

 樹里は再び演奏を始めたが、数小節も進まないうちにまた止められた。

「感情が表面的だ。もっと深く、もっと激しく。お前の魂をすべて音に込めろ」

 そこから始まったのは、樹里にとって想像を絶する特訓だった。エドワードは一つ一つの音符、一つ一つの表現に容赦なく指摘を浴びせ続けた。彼の要求する演奏レベルは、まさに天才ピアニストとしての彼自身の基準そのものだった。

「そこの転調、もっと劇的に。まるで運命が変わる瞬間のように弾け」

「右手の旋律線が死んでいる。歌わせろ、魂を込めて歌わせろ」

「テンポが甘い。正確性と情熱、その両立こそが芸術だ」

 時計の針が midnight を過ぎても、特訓は続いた。樹里の指は既に痛みを感じ始めていたが、エドワードは休憩を許さなかった。

「疲れただと? 音楽に疲れるなどという言葉があるのか?」

 彼の声には、19世紀の厳格な音楽教育を受けた人間の鋭さがあった。現代の優しい指導方法など、彼には理解できないのだろう。

 樹里は歯を食いしばって演奏を続けた。指先から血が滲んでも、エドワードは容赦しなかった。

「血など何だ。音楽への愛に比べれば、肉体の痛みなど些細なことだ」

 午前2時を回った頃、樹里の意識は朦朧としてきた。しかし、エドワードの指導は続く。

「今度はリストの『ラ・カンパネラ』だ。技巧だけでなく、その奥にある詩情を表現しろ」

 樹里の手は既に震えていた。けれど、彼女は演奏を止めなかった。リョウのこと、静香のこと、そして自分に託された使命のことを思うと、どんな苦痛にも耐えることができた。

「もっとだ、もっと強く。お前の限界はそんなものか?」

 エドワードの声が遠くから聞こえてくる。樹里の視界は時折ぼやけたが、指だけは動き続けていた。

 午前3時、ついに樹里の手が鍵盤から離れた。彼女は椅子から立ち上がろうとして、よろめいた。

「まだ早い。あと2時間は続けるぞ」

 エドワードの言葉に、樹里は絶望的な気持ちになった。しかし、その時、練習室の扉がそっと開いた。

「樹里」

 修平の声だった。約束通り、彼が様子を見に来てくれたのだ。

「大丈夫か? 顔が真っ白だぞ」

 修平は樹里の手を見て、息を呑んだ。指先には確かに血が滲んでいた。

「これは酷すぎる。今日はもう帰ろう」

 しかし、樹里は首を振った。

「まだ、続けられます」

 エドワードが修平を見据えた。

「邪魔をするな。これは彼女が選んだ道だ」

 修平の表情が険しくなった。

「選んだ道だって? こんなの拷問じゃないか。樹里、もうやめろ」

 樹里は修平と エドワードの間に立った。その瞬間、彼女の中で何かが変わった。痛みも疲労も、すべてが音楽への愛に昇華していく感覚があった。

「修平、大丈夫。これは必要なことなの」

 彼女の声には、新しい力強さが宿っていた。

「エドワードさん、続けましょう」

 樹里は再びピアノに向かった。今度は違った。痛みを受け入れ、苦痛を音楽に変える術を、彼女は掴み始めていた。

 エドワードの表情に、初めて満足の色が浮かんだ。

「そうだ。それでこそ、真の音楽家への第一歩だ」

 練習室に再び音楽が響き始めた。しかし、今度の音色は以前とは明らかに違っていた。樹里の演奏には、深い苦悩と、それを乗り越える意志の力が込められていた。

 修平は心配そうに見守りながらも、樹里の変化を感じ取っていた。彼女が何か重要な境界を越えようとしていることを。

 夜明けまで、まだ時間があった。

夜想曲と紡がれた亡霊

16

過酷な特訓

月村 奏子

2026-04-05

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第16話 過酷な特訓 - 夜想曲と紡がれた亡霊 | 福神漬出版