翌朝の光が練習室の埃っぽい窓を染める頃、樹里はピアノの前で眠り込んでいた。楽譜が頬に貼り付き、髪は乱れ、疲労が顔に深い影を落としている。
「樹里!」
修平の声が練習室に響いた。扉を開けた彼は、樹里の姿を見て慌てて駆け寄る。
「また徹夜したのか。体がもたないぞ」
樹里は修平の声で目を覚ました。ぼんやりとした視線で彼を見上げる。
「修平......おはよう」
「おはようじゃない。いつからここにいるんだ?」
「昨夜から......でも、いい感じだったの。静香さんが教えてくれたことを試してみて......」
修平は深いため息をつく。樹里の頬に貼り付いた楽譜を優しく剥がしながら、心配そうに眉をひそめた。
「話は後だ。まずは朝食を摂って、少し休め。このままじゃ倒れる」
樹里は立ち上がろうとしたが、足がふらついた。修平が咄嗟に支える。
「ほら見ろ。無理をしすぎだ」
修平は樹里の肩に手を回し、そっと練習室から連れ出した。廊下を歩きながら、彼は樹里の異変について考えを巡らせる。最近の樹里の変化は明らかだった。何かに憑かれたように練習に打ち込み、時折独り言を呟く。まるで見えない誰かと会話をしているかのように。
学食で朝食を摂りながら、修平は樹里を注意深く観察していた。
「樹里、最近様子がおかしいぞ。何かあったのか?」
樹里はスープを飲む手を止めた。修平の真剣な表情を見て、どこまで話すべきか迷う。
「心配してくれてありがとう。でも大丈夫よ」
「大丈夫じゃない。見ていて分かる。お前は昔から無理をする癖があるけど、今回は違う」
修平の言葉に、樹里は胸の奥がちくりと痛んだ。幼馴染だからこそ、彼は樹里の変化を敏感に感じ取っているのだろう。
「何か......相談できないことでも抱えているのか?」
樹里は修平の優しい眼差しに心を動かされた。霊のことは話せないが、音楽への想いなら共有できるかもしれない。
「最近、音楽について深く考えることが多くて。技術だけじゃない、もっと根本的な何かを求めている気がするの」
修平は頷いた。音楽への探求心が樹里を駆り立てていることは理解できる。しかし、それが彼女を追い詰めているのなら話は別だ。
「それは素晴らしいことだ。でも、体を壊してまで求めるものじゃない。音楽は人生を豊かにするものであって、人生を犠牲にするものじゃないだろう」
樹里は修平の言葉を聞きながら、エドワードと静香の対照的な姿を思い浮かべた。二人とも音楽に人生を捧げた結果、この世に留まることになった。修平の現実的な視点は、霊たちの極端な執着とは対極にある。
その日から、修平は樹里のサポートに本格的に取り組んだ。まず、規則正しい食事を摂らせることから始めた。昼食時には必ず樹里を見つけ出し、学食に連れて行く。樹里が練習に夢中で食事を忘れることを見越して、サンドイッチやおにぎりを持参することもあった。
「修平、そこまでしなくても......」
「いいんだ。お前が心配なんだ」
修平の献身的な態度に、樹里は複雑な感情を抱いた。ありがたい気持ちと同時に、申し訳ない気持ちが混じり合う。修平は自分の練習時間を削って樹里のために尽くしているのだ。
夕方、樹里が練習室に向かおうとすると、修平が待っていた。
「今日は早めに切り上げて、一緒に帰らないか?」
「でも、まだ練習したいことが......」
「明日でもできるだろう。今日は休息が必要だ」
樹里は修平の提案を断り切れず、一緒に帰ることにした。しかし、心の中では深夜の練習に戻る計画を立てていた。
夜が深まった頃、樹里は寮を抜け出して音楽棟に向かった。しかし、練習室の前で意外な人物に出会う。
「修平? なぜここに?」
修平は樹里を見て、やはりという表情を浮かべた。
「お前が来ると思った。最近の行動パターンを見ていれば分かる」
「でも、どうして......」
「一人で無茶をさせるわけにいかない。付き添う」
樹里は修平の決意に驚いた。彼は本気で自分を心配し、見守ろうとしているのだ。
「修平の練習はいいの?」
「お前のことの方が大切だ」
修平の率直な言葉に、樹里の胸は温かくなった。同時に、霊たちとの秘密を抱えている罪悪感も増す。
練習室に入ると、いつものようにエドワードと静香の気配を感じた。しかし、修平がいる手前、直接的な交流は難しい。樹里は修平を気にしながら、ピアノに向かった。
「何か変だな」修平は室内を見回した。「空気が......重い」
樹里は驚いた。修平にも霊の存在が感じ取れるのだろうか。
「気のせいじゃない?」
「いや、確かに何かいる。この前から感じていたんだ」
エドワードの声が樹里の心に響いた。
『その少年、なかなか鋭い感性を持っているな』
静香の声も続く。
『優しい心を持った方ですね。樹里さんを大切に思っているのが伝わります』
樹里は霊たちの声を聞きながら、修平との距離感に悩んだ。彼の献身に応えたい気持ちと、霊たちとの約束を果たしたい想いが複雑に絡み合う。
「樹里、無理をしなくてもいいんだ」修平は樹里の葛藤を察したように声をかけた。「お前のペースでやればいい。ただ、一人で抱え込まないでほしい」
樹里は修平の言葉に心を打たれた。彼は樹里の秘密を知らないながらも、彼女を支えようとしている。その純粋な友情に、樹里の目に涙が浮かんだ。
「ありがとう、修平」
樹里はピアノに向かい、静香から学んだ心からの演奏を始めた。技術よりも感情を重視した、優しく暖かい音色。修平はその変化に気づいた。
「音が変わったな。前より......人間らしい」
樹里の演奏に、霊たちも静かに耳を傾けている。エドワードでさえ、批判的な言葉を口にしない。修平の存在が、この空間に新しい調和をもたらしているようだった。
深夜の練習が終わり、二人は寮に向かって歩いた。
「修平、本当にありがとう。でも、自分のことも大切にして」
「お前がちゃんと自分を大切にしたら、俺も自分のことを考える」
修平の答えに、樹里は苦笑した。彼の頑固さは昔から変わらない。
寮の前で別れる時、修平が振り返った。
「樹里、もし何か困ったことがあったら、遠慮しないで頼ってくれ。秘密があってもいい。ただ、一人で背負い込むな」
樹里は修平の背中を見送りながら、彼の言葉を胸に刻んだ。霊たちとの約束と、修平への友情。両方を大切にする方法があるはずだ。
部屋に戻った樹里は、窓の外に浮かぶ月を見上げた。明日からの練習について考えながら、修平の献身的な友情に改めて感謝する。そして、いつかすべてを彼に話せる日が来ることを願った。
その時、かすかにピアノの音色が夜風に乗って聞こえてきた。練習棟の方向から、誰かが深夜に演奏している。樹里以外にも、夜の音楽に魅せられた者がいるのだろうか。