気がつくと、私は保健室のベッドに横たわっていた。白い天井が視界いっぱいに広がり、消毒液の匂いが鼻をつく。頭がぼんやりとして、まるで深い霧の中から浮上してきたような感覚だった。
「樹里ちゃん、気がついたのね」
優しい声に振り向くと、佐々木教授が椅子に座って私を見守っていた。普段の穏やかな表情とは違い、どこか重いものを抱えたような影が差している。
「教授...私、どうして」
「修平君が見つけたのよ。練習室で倒れているあなたを」
そうだ。少年霊が私を連れ去ろうとして、エドワードと静香が必死に阻止してくれて。あの後、記憶が曖昧になっている。
「あの子は?少年霊は大丈夫でしたか?」
佐々木教授の表情がさらに曇った。
「やはり、あの子に会ったのね。樹里ちゃん、私たちは話し合う必要があるわ。この大学で本当に何が起こっているのか、あなたは知る権利がある」
教授の声に、今まで聞いたことのない深刻さがあった。私は身を起こし、教授の言葉を待った。
「まず、あの少年について話しましょう。彼の名前は田村健一。戦時中、この大学で学んでいた才能ある少年だった」
「戦時中...」
「そう。昭和十八年のことよ。当時、この国は戦争の真っ只中にあり、音楽もまた戦争の道具として利用されていた。西洋音楽は敵性文化として弾圧され、多くの音楽家たちが苦しい立場に置かれていた」
佐々木教授は窓の外を見つめながら続けた。夜の闇が校舎を包み、まるでその当時の暗い時代を象徴しているかのようだった。
「健一君は特に過酷な運命を背負っていたの。彼の父親が反戦思想を持っていたとして特高警察に目をつけられ、家族全員が監視下に置かれていた。それでも健一君は音楽を愛し続け、こっそりとこの大学で練習を続けていた」
「こっそりと?」
「表向きは軍歌や戦意高揚の楽曲しか演奏が許されていなかった。でも健一君は、夜中にこの建物に忍び込んで、ショパンやベートーヴェンを弾き続けていたのよ。音楽への愛が、彼にそうさせていた」
私の胸が痛んだ。あの少年の孤独感の根源が見えてきた。
「そして、ある夜のこと。健一君がいつものように練習をしていると、特高警察がやってきた。密告があったのね。反国家的な音楽を演奏している不届き者がいると」
教授の声が震えていた。
「健一君は恐怖のあまり、練習室に閉じこもった。でも彼らは容赦なかった。扉を破り、十三歳の少年を『非国民』『反逆者』と罵った。そして...」
「教授」
「健一君は、その場で息を引き取ったの。恐怖と絶望で心臓が止まってしまった。彼の最期の瞬間まで、ピアノの鍵盤に手が伸びていたそうよ」
涙が頬を伝った。あの少年の執着、孤独感、そして私への異常なまでの愛情。すべてが理解できた気がした。
「でも、それだけではないの」
佐々木教授は重い口調で続けた。
「この大学では、戦時中に多くの悲劇があった。エドワード・グレイの楽譜を所持していたという理由で処罰された学生。反戦的な楽曲を作曲したとして迫害された教員。そして静香さん...」
「静香さんも?」
「雅楽院静香さんは、女性作曲家としての地位を確立しつつあった才能ある人だった。でも戦争が始まると、彼女の作品も『軟弱』『非国民的』と批判されるようになった」
教授は手に取った古い写真を私に見せた。そこには、凛とした表情の美しい女性が写っていた。間違いなく、あの静香さんだった。
「静香さんは最後まで自分の音楽を貫こうとした。でも社会の圧力は強く、やがて彼女は精神的に追い詰められていった。そして昭和十九年、この大学の屋上から身を投げたのよ」
「そんな...」
「エドワード・グレイについても、真実があるの。彼は確かに十九世紀の天才ピアニストだった。でも彼がこの大学に現れるようになったのは、戦時中からなの。彼の楽譜を愛し、命をかけて守ろうとした人たちの想いが、彼の魂を呼び寄せたのかもしれない」
私は震えていた。この大学に漂う悲しみの正体が、ようやく明確になった。
「つまり、ここにいる霊たちは皆...」
「音楽を愛するがゆえに、理不尽な死を迎えた魂たちよ。彼らは今でも、自分たちの音楽を理解してくれる人を探し続けている。特に健一君は、あまりにも若く、あまりにも孤独な死だった。だから彼の執着は他の霊たちよりも強いの」
佐々木教授は私の手を取った。
「樹里ちゃん、あなたは彼らにとって希望の光なの。あなたの霊感の強さ、音楽への純粋な愛、そして何より彼らの痛みを理解しようとする心。それが彼らを惹きつけている」
「でも、健一君は私を...」
「彼は間違った方法で愛情を表現しているけれど、その根底にあるのは純粋な愛よ。何十年もの間、誰にも理解されず、誰にも愛されず、ただ一人でこの建物をさまよい続けていた。そんな彼にとって、あなたは救いの女神のような存在なの」
私は複雑な気持ちになった。健一君の行動は確かに危険だったが、その背景にこれほど深い悲しみがあったとは。
「他の学生たちは、なぜ霊たちに気づかないのですか?」
「音楽への愛の深さと純粋さが違うのよ。そして、あなたには特別な使命があるの。この大学に眠る魂たちを、真の安らぎに導くという使命が」
窓の外で風が音を立てた。まるで霊たちの嘆きの声のように聞こえる。
「私に、何ができるでしょうか」
「それはあなた自身が見つけなければならない。でも一つ言えるのは、彼らの音楽への愛を完全に理解し、その想いを昇華させることができれば、きっと彼らは安らかに旅立てるということよ」
佐々木教授は立ち上がった。
「今夜はもう遅い。ゆっくり休みなさい。でも樹里ちゃん、決して一人で行動してはダメよ。健一君の感情はまだ不安定だから」
教授が去った後、私は一人で考え込んだ。エドワード、静香さん、そして健一君。彼らは皆、音楽を愛するがゆえに苦しみ、理不尽な運命を背負った。
その時、保健室のドアがそっと開いた。振り返ると、薄っすらと健一君の姿が見えた。でも先ほどまでの激情は消え、ただ悲しそうな瞳でこちらを見つめている。
「お姉ちゃん...ごめんなさい」
か細い声が聞こえた気がした。私は彼に向かって微笑みかけた。
「健一君、大丈夫よ。私はあなたのことを理解したから」
少年霊の表情が少しだけ和らいだ。でも次の瞬間、彼の姿は闇に溶けるように消えていった。
私は窓の外を見つめた。この大学に隠された暗い歴史。そして今も彷徨い続ける魂たち。私に本当に彼らを救うことができるのだろうか。
夜風が頬を撫でていく。まるで静香さんの優しい手のように。