翌日の昼下がり、修平は樹里の姿を食堂で見つけた時、思わず息を呑んだ。頬はこけ、目の下には深い影が落ち、まるで生気そのものが抜け落ちてしまったかのようだった。
「樹里、大丈夫なのか?」
彼女は振り返ると、いつものように笑顔を見せようとしたが、その表情は震えていた。
「ごめん、修平。ちょっと寝不足で」
「嘘をつくな」修平は樹里の肩を掴んだ。「昨日から様子がおかしい。何があったんだ?」
樹里は視線を逸らそうとしたが、修平の真剣な眼差しに負けたように、ため息をついた。
「練習室で…少し無理をしすぎたみたい」
「また夜中に?」修平の声は怒りを含んでいた。「樹里、君は自分の身体を何だと思っているんだ?」
「でも、修平には分からない」樹里は弱々しく首を振った。「あの音楽の美しさを。エドワードと奏でる調べの完璧さを」
修平の心に氷のような恐怖が走った。樹里の瞳の奥に、まるで別の何かが宿っているような気がしたのだ。
その日の夕方、修平は図書館で佐々木教授を見つけた。白髪の老教授は古い楽譜を読んでいたが、修平の深刻な表情を見ると眉をひそめた。
「田中君、どうしたのかね?」
「教授、樹里のことでお聞きしたいことがあります」修平は椅子に腰を下ろした。「彼女が最近、夜中の練習室で何かに取り憑かれたようになっているんです」
佐々木教授の手が止まった。
「取り憑かれた、とは?」
「身体がやつれて、まるで別人のようになって…でも本人は音楽のことしか頭にない」修平は拳を握りしめた。「教授は何かご存知ではありませんか?この建物の歴史について」
長い沈黙が流れた後、教授は重々しく口を開いた。
「田中君、君は霊的なものを信じるかね?」
「正直、分かりません。でも樹里に何かが起こっているのは確かです」
「この校舎には多くの音楽家たちの魂が眠っている」教授は声を落とした。「特に未練を残した者たちが。彼らは生者の才能に惹かれ、時として過度な要求をすることがある」
修平の背筋に寒気が走った。
「それが樹里に起こっているということですか?」
「可能性はある。特に感受性の強い学生は危険だ」教授は修平の目を見つめた。「君が彼女を守りたいなら、直接対峙するしかない」
夜が更けた頃、修平は練習室の前に立っていた。中からはピアノの音が流れ出している。しかし、それは昼間に聞いた樹里の演奏とは明らかに違っていた。技術的に完璧すぎて、まるで機械のような冷たさを感じさせた。
修平は震える手でドアノブを回した。
練習室の中で、樹里は憑かれたように鍵盤を叩いていた。その隣には薄っすらと人影が見える。19世紀の衣装を着た男性の姿だった。
「樹里!」
修平の叫び声に、演奏が止まった。樹里がゆっくりと振り返る。その顔は修平の知る優しい樹里ではなく、どこか高慢で冷たい表情を浮かべていた。
「修平?こんな時間になぜ」樹里の声にも違和感があった。
「君じゃない」修平は一歩前に出た。「樹里を返せ」
薄い人影がゆらりと動いた。エドワード・グレイの霊が姿を現す。
「なんと愚かな」エドワードの声が室内に響いた。「この娘は自ら望んでここにいるのだ。真の音楽を求めて」
「樹里が望むはずがない!」修平は声を張り上げた。「君が彼女を利用しているだけだ!」
エドワードの瞳に怒りが宿る。
「利用だと?私は彼女に最高の音楽を与えている。凡庸な君には理解できまい」
修平は恐怖で足が震えていた。しかし、やつれ果てた樹里の姿を見ると、勇気が湧き上がってきた。
「確かに僕は凡庸だ」修平は震え声で続けた。「音楽の才能もない。でも樹里を愛している。彼女の笑顔を、優しさを、そのすべてを愛している」
「愛だと?」エドワードは嘲笑した。「そんな感情的なもので音楽が奏でられると思うのか?」
「思う」修平ははっきりと答えた。「樹里の音楽が美しいのは、彼女が人を愛しているからだ。君にはそれが分からないのか?」
エドワードの表情に動揺が走った。
「樹里」修平は彼女に向き直った。「思い出してくれ。君が最初に僕にピアノを聞かせてくれた時のことを。技術なんてめちゃくちゃだったけど、すごく温かくて、聞いているだけで幸せになれた」
樹里の瞳に涙が浮かんだ。
「修平…」
「君の音楽は人を幸せにするためのものだったはずだ。自分を犠牲にしてまで完璧を求めるものじゃない」
エドワードが苛立ったように手を振ると、修平の身体が見えない力で壁に叩きつけられた。
「黙れ、小僧!」
だが修平は立ち上がった。血が口の端から流れているが、彼の意志は揺らがない。
「樹里、帰ろう。みんなが君を心配している」
樹里の頬に涙が流れ落ちた。その時、室内に別の気配が現れた。雅楽院静香の霊だった。
「エドワード、もう十分です」静香の声は穏やかだが、確固たる意志を感じさせた。「この子を苦しめることはない」
「静香、君は何を…」
「愛こそが音楽の源泉です。この方の言葉は真実です」静香は修平を見つめた。「あなたの勇気が、この子を救うのです」
修平は樹里に手を差し出した。彼女は迷うように二人の霊を見つめた後、修平の手を取った。その瞬間、室内に温かな光が満ちた。