練習室の扉が閉まった後、時計の針は午前三時を指していた。修平の負傷した左腕を見つめながら、樹里は自分の手が震えていることに気づく。彼の袖口に滲んだ血が、蛍光灯の下で黒く見えた。

「大丈夫?本当に病院に行かなくて平気?」

「かすり傷だよ。それより君の方が心配だ」修平は片手でハンカチを巻きながら、樹里の顔を覗き込んだ。「顔色が悪い。いつから最後にちゃんと眠った?」

 樹里は答えに窮した。確かに、エドワードや静香との練習が始まってから、まともに眠れた夜はほとんどない。毎晩深夜まで練習室にこもり、明け方に寮に戻っても、頭の中では複雑な旋律が鳴り続けている。食事も喉を通らず、授業中にも鍵盤を叩く指の動きばかりが頭に浮かんだ。

「少し疲れているだけ」

「少し?」修平の声に心配の色が滲んだ。「樹里、最近の君はどこか変だよ。まるで別人みたいに見える時がある」

 別人。その言葉が胸に突き刺さる。確かに、鏡に映る自分の顔は以前とは違って見えた。頬はこけ、目の下には深いクマができている。でもそれ以上に、自分の中で何かが変質していることを樹里は感じていた。

「帰ろう。今日はもう十分だ」

 修平の提案に従い、二人は静寂に包まれた廊下を歩いた。しかし樹里の耳には、まだあの少年霊の狂気じみた演奏が響いている。美しい旋律の中に潜む狂気、それは彼だけのものだろうか。エドワードの完璧主義への執着、静香の認められることへの渇望、そして自分自身の音楽への憧れ。境界線が曖昧になっていく。

 翌朝の音楽理論の授業中、樹里は机に突っ伏していた。教授の説明する和声進行の言葉が、まるで水の中から聞こえてくるようにぼんやりとしている。

「桜井さん」

 名前を呼ばれて顔を上げると、クラスメイトたちが皆こちらを見ていた。教授が心配そうな表情で近づいてくる。

「大丈夫ですか?」

「はい、すみません」

 しかし立ち上がった瞬間、視界がぐらりと揺れた。教室の蛍光灯が異常に眩しく感じられ、周囲の音が遠のいていく。

「樹里!」

 修平の声が聞こえたが、それも遠い。気がつくと保健室のベッドに横になっていた。白い天井を見つめながら、樹里は自分の状況を把握しようとする。

「栄養失調気味ね。最近ちゃんと食べている?」

 保健師の優しい声に、樹里は曖昧にうなずいた。食事のことなど考える余裕はなかった。頭の中は常に音楽で満ちており、現実的なことがどんどん後回しになっていく。

「少し休んでから帰りなさい。無理は禁物よ」

 一人になった保健室で、樹里は天井の染みを見つめていた。その染みが、だんだんと鍵盤の形に見えてくる。指が勝手に動き始め、空中で複雑なパッセージを奏でている。エドワードに教わった技法、静香から学んだ表現、そして少年霊の狂気。すべてが混じり合って、自分でもよくわからない音楽になっていく。

 夕方、寮に戻った樹里を待っていたのは、ルームメイトの心配そうな顔だった。

「樹里ちゃん、大丈夫?修平君から連絡があったの」

「ええ、ちょっと疲れているだけ」

 しかしベッドに横になっても、樹里の頭の中では音楽が止まらない。エドワードの厳格な指導の声、静香の情熱的な語りかけ、そして少年霊の執着に満ちた囁き。現実の音なのか、記憶なのか、それとも幻聴なのか、区別がつかなくなっていく。

 深夜、樹里は無意識のうちにベッドから抜け出していた。廊下を歩きながら、自分の足音が異様に大きく響くことに気づく。まるで誰かと歩調を合わせているような、複数の足音が聞こえる。

 練習棟の廊下に入ると、各部屋から微かに音楽が聞こえてきた。でもそれは現実の音なのだろうか。午前二時に誰が練習しているというのか。

 いつもの練習室の前に立つと、扉の向こうから自分の演奏が聞こえてくる。しかしそれは、自分が知らない曲だった。美しく、しかし不安定で、狂気の縁を歩くような旋律。

 扉を開けると、そこには誰もいない。しかし演奏は続いている。樹里はピアノの前に座り、自分の指を見つめた。指が勝手に動いているのか、それとも自分の意志で弾いているのか、わからなくなっていく。

「樹里」

 エドワードの声が背後から聞こえた。振り返ると、彼はいつもより薄く、透明に見える。

「君は限界を越えつつある」

「限界って?」

「現実と幻想の境界だ。音楽に魂を捧げすぎた者が辿る道。我々と同じ道だ」

 静香の姿も現れる。彼女もまた、以前より実体感が薄い。

「私たちと同じになってしまう前に、立ち止まるべきかもしれません」

 しかし樹里の耳には、二人の言葉がぼんやりとしか聞こえない。代わりに、どこからともなく少年霊の声が響いてくる。

「樹里、僕たちだけの世界で一緒に演奏しよう。現実なんて醜いものは忘れて」

 その時、練習室の扉が勢いよく開かれた。修平が立っている。

「樹里!また一人で来たのか」

 修平の姿を見た瞬間、樹里は自分が今どこにいるのか、何をしているのかがわからなくなった。現実が霧のように曖昧で、すべてが夢の中の出来事のように感じられる。

「私、どこにいるの?」

 樹里の問いかけに、修平の顔が青ざめた。彼女の瞳は焦点が定まらず、まるで遠くの何かを見つめているようだった。

「樹里、僕の顔が見えるか?」

 修平の声が遠い。すべてが遠い。音楽だけが、頭の中で鳴り続けている。

夜想曲と紡がれた亡霊

31

樹里の限界

月村 奏子

2026-04-20

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第31話 樹里の限界 - 夜想曲と紡がれた亡霊 | 福神漬出版