保健室のベッドで目を覚ましてから三日が過ぎた。友人たちの心配そうな視線と、修平の厳しい監視によって、樹里は一人で練習室に向かうことを固く禁じられていた。
「樹里、顔色がまだ悪いよ」
学食で昼食を取りながら、修平が心配そうに樹里の表情を見つめる。確かに鏡で見た自分の顔は青白く、頬もこけていた。しかし、霊たちとの練習なしには、もう音楽に向き合う意味を見出せずにいる。
「大丈夫よ。ちゃんと食べてるし」
そう答えながらも、樹里の心は空虚だった。授業中も上の空で、楽譜を見ても以前のような熱意が湧いてこない。エドワードの厳しい指導も、静香の優しい励ましも、今は遠い記憶のようだった。
午後の音楽史の授業で、佐々木教授の姿を見た時、樹里は小さな希望を抱いた。教授なら、自分の状況を理解してくれるかもしれない。
授業が終わると、樹里は教授の研究室を訪ねた。重厚な木製のドアをノックすると、低い声で返事が返ってくる。
「失礼します」
研究室は古い楽譜と音楽書で埋め尽くされていた。窓際の机で、佐々木教授が古いファイルを整理している。
「桜井君、体調はどうかね」
教授の優しい眼差しに、樹里は思わず涙ぐみそうになった。
「教授、お聞きしたいことがあります」
樹里は意を決して口を開いた。
「あの霊たちのこと、教授はどこまでご存知なんですか」
教授の手が止まった。しばらく沈黙が続き、やがて深いため息が漏れる。
「やはり、君も彼らと出会ったのだね」
「はい。エドワード・グレイと雅楽院静香、そして他にも何人か」
教授は立ち上がり、書棚から一冊の古いアルバムを取り出した。
「実は私も、君と同じ年頃に彼らと出会った」
樹里は驚きで目を見開いた。教授がアルバムを開くと、古い白黒写真が現れる。若い頃の教授の姿と、美しい女性の姿が写っていた。
「これは私の恋人だった美月という女性だ。彼女もピアノ科の学生で、素晴らしい才能の持ち主だった」
写真の中の女性は、確かに聡明そうな美しい人だった。若い教授の表情も、今とは違って希望に満ちている。
「彼女も霊感が強く、練習室で彼らと出会った。最初は私も半信半疑だったが、美月の演奏が日に日に上達していくのを見て、何かがあることを確信した」
教授の声に、深い悲しみが滲んでいた。
「美月は君と同じように、彼らとの練習に没頭した。エドワードの厳しい指導、静香の温かい支え、そして他の霊たちの音楽への情熱に魅了されていった」
樹里は息を呑んだ。自分と全く同じ状況だったのだ。
「でも、美月は次第に現実世界から離れていった。友人たちとの関係も疎遠になり、食事も睡眠もおろそかになった。私がいくら心配しても、彼女の耳には届かなくなっていた」
教授はアルバムのページをめくる。途中から、写真の中の美月の表情が変わっていくのが分かった。最初の生き生きとした笑顔が、次第に憂鬱そうな表情に変わっている。
「そしてある夜、美月は練習室で倒れた。発見されたときには、もう手遅れだった」
樹里の胸が締め付けられた。
「死因は極度の衰弱による心不全。医師は過労死と診断したが、私には分かっていた。美月は霊たちの世界に引きずり込まれ、現実世界との繋がりを失ったのだと」
教授は写真を見つめながら続けた。
「美月の葬儀の後、私は彼らに会いに行った。エドワードは言った。『彼女は音楽の真理を追い求めすぎた。我々もそれを止めることはできなかった』と。彼らもまた、美月の死を悼んでいた」
「それで、教授は」
「それ以来、私は霊たちとは関わらないようにした。美月を失った悲しみと、自分が止められなかった後悔に苛まれながら、音楽史の研究に専念することにしたのだ」
教授は樹里の目をまっすぐ見つめた。
「君も美月と同じ道を歩もうとしている。だから私は心配なのだ」
樹里は混乱していた。美月という女性が、自分と同じように霊たちと出会い、そして命を落としたという事実。教授もまた、愛する人を失った深い傷を負っていたのだ。
「でも、教授。彼らは私に音楽の素晴らしさを教えてくれました。エドワードの指導がなければ、私はこんなにピアノを愛することはできませんでした」
「それは分かる。私も美月を通して、彼らの音楽への情熱を知った。しかし、代償があまりにも大きすぎる」
教授は再びアルバムを閉じた。
「君には美月と同じ運命を辿ってほしくない。まだ間に合う。彼らとの関係を断ち切りなさい」
樹里は立ち上がった。心の中で何かが激しく葛藤している。
「教授、一つお聞きしたいことがあります」
「何だね」
「美月さんは、本当に幸せではなかったのでしょうか。音楽の真理を追い求めることは、そんなに間違ったことなのでしょうか」
教授は長い間沈黙していた。やがて、かすれた声で答える。
「分からない。美月は最期まで、音楽への愛を語っていた。彼女にとって、それが幸せだったのかもしれない。でも、私には彼女を失った現実しか残らなかった」
樹里は深く頭を下げた。
「貴重なお話をありがとうございました」
研究室を出ると、夕日が廊下を赤く染めていた。樹里の心は複雑だった。教授の悲痛な体験を聞いて、霊たちとの関わりの危険性を改めて実感した。しかし同時に、美月という女性が音楽に命を捧げた想いも理解できた。
自分はどうするべきなのか。答えは見つからないまま、樹里は夕暮れの校舎を歩いていた。