静香の穏やかな微笑みを見つめながら、樹里は深い安堵感に包まれていた。月光が差し込む第三練習室で、二人の霊の表情は今までにないほど平安に満ちている。エドワードの金髪が薄ぼんやりと輝き、静香の和装姿が幻想的に揺らめいていた。
「樹里、あなたのおかげで私たちは長い間抱えていた重荷を下ろすことができた」
静香の声は、春風のように優しく樹里の心に響いた。
「そうだ。君という理解者に出会えたことで、私は初めて音楽の真の意味を知ることができた」
エドワードもまた、生前の傲慢さを完全に捨て去ったかのような穏やかな表情で頷いた。
樹里は二人の言葉に心を躍らせながら、自分もまた彼らから多くのことを学んだのだと実感していた。音楽への純粋な愛、そして人との絆の大切さ。生と死を超えた魂の交流の中で、樹里の音楽に対する理解は格段に深まっていた。
「私も、お二人との出会いで本当の音楽を知ることができました」
樹里の声は感謝に満ちていたが、その時ふと気がついた。いつの間にか、練習室の扉の向こうから誰かの声が聞こえてくる。
「樹里! 樹里、どこにいるんだ!」
その声は——修平の声だった。
樹里は首を傾げた。夜中の三時を過ぎているはずなのに、なぜ修平がここにいるのだろう。
「樹里! 返事をしてくれ!」
修平の声は次第に大きくなり、廊下を走る足音も聞こえてきた。樹里が振り返ると、エドワードと静香の表情が僅かに曇った。
「あの青年か」エドワードが呟いた。「君の幼馴染の」
「樹里さん」静香が少し困ったような表情を見せた。「あの方は、私たちのことを理解してくださらないでしょうね」
樹里は戸惑った。確かに修平は現実主義者で、霊の存在を信じようとはしなかった。しかし、今この瞬間の平穏を壊されたくない気持ちも強かった。
「樹里! いるのは分かってるんだ! 頼むから返事をしてくれ!」
修平の声には切羽詰まったものがあった。まるで何かに怯えているかのような、必死さが込められている。
樹里が立ち上がろうとした時、静香が優しく手を伸ばした。
「樹里さん、あなたはここにいればよいのです。私たちと一緒に、永遠に音楽の世界に浸っていましょう」
エドワードも頷いた。
「そうだ。外の世界はもう関係ない。君はここで、真の芸術を追求すればよい」
二人の言葉に、樹里は心地よい誘惑を感じた。確かに、ここにいれば音楽だけに集中できる。俗世の煩わしさからも解放される。
しかし、修平の声は止まらなかった。
「樹里! もう一週間も学校に来てないじゃないか! みんな心配してるんだ! 佐々木教授も——」
一週間? 樹里は首を振った。そんなはずはない。昨日も、おとといも、ちゃんと授業に出ていたはずだ。
「樹里! お前の両親も東京まで出てきて、みんなで探してるんだ! 頼む、返事をしてくれ!」
両親が? 樹里の意識が僅かに揺らいだ。なぜ両親が出てくる必要があるのだろう。
その時、練習室のドアが勢いよく開かれた。修平が息を切らしながら立っていた。彼の顔は憔悴しきっており、目には深い心配の色が浮かんでいる。
「樹里! やっと見つけた!」
修平は樹里の姿を見つけると、安堵の表情を浮かべながら駆け寄ってきた。しかし、その足は樹里の前で止まった。
「樹里? 大丈夫か?」
修平の目には困惑の色があった。樹里を見つめる彼の表情は、まるで何か異常なものを見ているかのようだった。
「修平? なぜそんな顔をするの?」
樹里が問いかけると、修平は慎重に口を開いた。
「樹里、君は今、誰と話をしているんだ?」
「誰って——」
樹里が振り返ると、エドワードと静香が心配そうな表情でこちらを見ていた。
「エドワードさんと静香さんと話していたのよ。ほら、そこに——」
「樹里」修平の声が震えた。「ここには君しかいない。君は一人で空中に向かって話しているんだ」
樹里の頭の中が混乱した。そんなはずはない。確かに二人はそこにいる。
「そんなことない! ほら、エドワードさん、何か言ってください!」
エドワードは悲しそうな表情を浮かべながら、首を横に振った。
「樹里、君はもう現実の世界の人間には見えないだろう。君は既に私たちの世界の住人になりつつある」
静香も頷いた。
「樹里さん、もう戻れないところまで来てしまったのかもしれません」
修平は樹里の肩を掴んだ。
「樹里、聞いてくれ。君は一週間前から行方不明になっていた。授業にも出席せず、アパートにも帰らず、誰とも連絡が取れなくなった。佐々木教授が『あの子は霊たちに取り込まれてしまった』と言って、みんなで君を探していたんだ」
樹里の記憶が曖昧になった。一週間前? 確かに、時間の感覚が分からなくなっている。昼と夜の区別も、日付の感覚も——
「でも、私はちゃんとここにいるわ。ちゃんと話もできるし——」
「樹里、君の体は痩せ細って、まるで栄養を摂っていないみたいだ。顔は青白くて、まるで——」
修平は言いかけて口を噤んだ。しかし、その言葉の続きは樹里にも分かった。まるで死人のような、ということだったのだろう。
樹里は自分の手を見た。確かに、以前より白く、透けているような気がする。
「樹里さん」静香が申し訳なさそうに呟いた。「私たちは、あなたを自分たちの世界に引きずり込んでしまったのかもしれません」
エドワードも深く頭を下げた。
「許してくれ。私たちは君に理解されることが嬉しくて、君を手放したくなかったのだ」
修平は樹里の両手を握った。その手は温かく、確実に現実世界の温もりを持っていた。
「樹里、お前は必要な人間なんだ。音楽の世界でも、現実の世界でも。お前の音楽は、生きている人間の心を動かすためにあるんじゃないのか?」
樹里の心に、修平の言葉が深く響いた。確かに、音楽は生きている人々のためにある。死者の世界だけで完結するものではない。
「私は——私はどうすればいいの?」
樹里の声は震えていた。エドワードと静香への愛情と、現実世界への責任の間で、心が引き裂かれそうだった。
静香が優しく微笑んだ。
「樹里さん、選択の時が来たのです。私たちと共に永遠の音楽の世界に留まるか、それとも現実に戻って生きている人々のために音楽を奏でるか」
エドワードも頷いた。
「どちらを選んでも、私たちは君を責めない。君の心に従いなさい」
樹里は目を閉じた。心の奥底で、何かが激しく揺れ動いている。運命の分岐点に立った今、彼女はどちらの道を選ぶのだろうか。