零時の鐘が響いた瞬間、修平は自分の心臓が激しく打つ音を感じていた。樹里の決意を受け入れた今、彼にはもう後戻りする道は残されていない。練習室に満ちる異界の空気が肌に突き刺さり、見えない何かの視線が彼を射抜いているのを感じた。
「本当に、これで良いんだな」
修平は自分自身に問いかけた。理性的な彼にとって、霊や超常現象を受け入れることは容易ではなかった。しかし、樹里の苦悩を間近で見続けてきた今、もはや疑う余地はない。この大学には確かに、音楽に魂を捧げた者たちの残留思念が存在している。
樹里はピアノの前に座り、深く息を吸い込んでいた。その横顔は月光に照らされて青白く、まるで彼女自身が既に現世と幽世の境界線上に立っているかのようだった。
「樹里」
修平は静かに声をかけた。
「何かあったら、遠慮なく言ってくれ。俺にできることなら何でもする」
樹里は振り返り、微笑みかけた。その笑顔には、これまで見たことのない決意が宿っていた。
「ありがとう、修平。でも、これは私がやらなければならないことなの。あなたにできるのは、私を信じて見守ってくれることだけ」
修平は頷いた。しかし、内心では別の覚悟を固めていた。樹里が十五曲を演奏し切る間に倒れる可能性は高い。その時、自分はどう行動すべきか。救急車を呼ぶべきか、それとも最後まで彼女の意志を尊重すべきか。
その時、練習室の空気が急激に冷え込んだ。修平の吐く息が白く見えるほどに気温が下がり、窓ガラスに細かな霜が浮かび上がった。
「来たのですね」
樹里が呟いた。修平には見えないが、彼女の視線の先に霊たちが姿を現したのだろう。練習室に重厚な雰囲気が立ち込め、修平は本能的に身を震わせた。
樹里の指が鍵盤に触れると、最初の音が響いた。ショパンのバラード第一番。技巧的に難しい楽曲だが、樹里の演奏は最初から完璧だった。しかし修平には、その音色の向こうに何か別の音が混じっているのが聞こえた。
複数の楽器音が重なり合い、まるでオーケストラが演奏しているような厚みを持った響きが練習室を満たしていく。これが霊たちの音楽なのだろうか。修平は背筋に冷たいものを感じながらも、その美しさに圧倒された。
一曲目が終わると、樹里は一瞬だけ息をつき、すぐに次の楽曲に移った。リストの超絶技巧練習曲第四番「マゼッパ」。指が鍵盤を駆け抜ける様は、まるで嵐のようだった。
しかし、修平は樹里の表情に変化を見て取った。彼女の目は焦点が定まらず、まるで意識の一部を別の世界に奪われているかのようだった。
「樹里、大丈夫か」
演奏が止まる瞬間を狙って声をかけたが、樹里は答えない。彼女の意識は既に霊たちとの交流に集中しており、現世の声は届かないのかもしれない。
三曲目、四曲目と進むにつれ、修平は異変を感じ始めた。樹里の顔色が徐々に悪くなり、額に汗が浮かんでいる。それでも彼女の演奏は衰えることなく、むしろ曲を重ねるごとに深みを増していた。
五曲目の途中、修平は決断した。このまま見ているだけでは、樹里を失ってしまうかもしれない。霊が見えない自分にできることは限られているが、少なくとも樹里を支えることはできるはずだ。
修平は立ち上がり、樹里の背後に回った。そっと手を彼女の肩に置くと、樹里の体が激しく震えていることが分かった。体温も異常に低く、まるで氷のようだった。
「樹里、俺がついている。一人じゃない」
その時、修平の視界に薄い影のようなものがちらつくのが見えた。最初は錯覚だと思ったが、じっと見つめていると、確かに人の形をした何かがピアノの周りに立っているのが分かった。
一人は燕尾服を着た長身の男性、もう一人は和服姿の女性。そして他にも、ぼんやりとした人影がいくつか見える。これが樹里の言っていた霊たちなのだろうか。
修平は恐怖よりも、不思議な感動を覚えた。彼らの表情は苦悩に満ちていたが、同時に樹里の演奏に深く聞き入っているのが分かった。音楽への愛、それだけは生者も死者も変わらないのかもしれない。
六曲目、七曲目。樹里の演奏は続いた。修平は彼女の肩に手を置いたまま、その体温を感じ続けた。時折、樹里の体に異常な熱が走ることがあった。恐らく霊たちとの交流が激しくなる瞬間なのだろう。
八曲目の途中、樹里が小さく呻き声を上げた。修平は咄嗟に彼女を支えようとしたが、樹里は首を振って演奏を続けた。
「まだ、まだよ。みんなを救わなければ」
樹里の声は掠れていたが、意志の強さは失われていなかった。修平は自分の無力さを痛感しながらも、彼女を支え続けることを誓った。
九曲目、十曲目。霊たちの姿がより鮮明になってきた。修平には彼らの表情の変化も見て取れるようになっていた。最初は苦悩と執着に満ちていた顔が、樹里の演奏に応えるように、次第に安らぎの表情に変わっていく。
十一曲目の時、修平は決定的な覚悟を固めた。樹里がもし倒れたなら、自分も彼女と運命を共にしよう。救急車など呼ばない。この神聖な儀式を最後まで見届けよう。
それが、樹里を愛する者としての、そして音楽を志す者としての責任だった。
十二曲目、十三曲目。樹里の体はもはや限界を超えていた。それでも彼女の指は正確に鍵盤を叩き続け、霊たちの魂を解放していく。修平は自分も一緒に音楽の奇跡を創造しているのだと感じていた。
十四曲目が始まった時、修平は霊たちの中に新しい存在を感じ取った。より古い時代の、より深い執念を抱いた存在。恐らくこの建物に眠る最も強力な霊なのだろう。
樹里の体が大きく震えた。修平は両手で彼女を支えながら、心の中で祈った。
「頼む、樹里。あと少しだ。みんなで乗り越えよう」
最後の曲へ向けて、長い夜は静かに深まっていく。