樹里の指が最後の準備を整えようとした時、練習室の空気が突如として凍りついた。窓ガラスに霜が走り、蛍光灯が不安定に明滅する。他の霊たちが一斉に身を寄せ合うように後退していく中、部屋の最奥から黒い影がゆらりと立ち上がった。

 それは小さな影だった。十歳ほどの少年の輪郭を持ちながら、その周りには狂気が渦巻いている。顔は見えないが、その存在感だけで練習室全体を支配していた。

「ついに出てきたのね」

 雅楽院静香の声に緊張が走る。エドワードも表情を硬くし、樹里を庇うように立ち上がった。

「樹里、気をつけろ。あの少年は他の霊とは違う。彼の中には―」

 エドワードの言葉が途中で遮られた。少年霊から発せられた低い唸り声が、まるで楽器の不協和音のように練習室に響いたからだ。その音は人の心を直接震わせ、樹里は思わず胸を押さえた。

「うああああああああ……」

 少年霊の口から漏れる声は、言葉にならない絶望の叫びだった。その声に混じって、かすかにピアノの音が聞こえる。しかし、それは美しい旋律ではなく、鍵盤を闇雲に叩きつけるような乱暴な音の羅列だった。

 樹里は恐怖で身体が震えるのを感じながらも、その音に耳を澄ませた。混沌とした音の中に、何かを伝えようとする意図を感じ取ったからだ。

「あの子は……何を伝えようとしているの?」

「彼の名前は健太郎」佐々木教授の声が、まるで遠い昔の記憶を呼び起こすように響いた。「昭和初期、この学校の前身である音楽院に通っていた神童だった」

 少年霊―健太郎の輪郭が次第に鮮明になってきた。痩せ細った頬、大きな瞳、そして異常なまでに細い指。その指は常に何かを弾くように動き続けている。

「彼は五歳でピアノを始め、七歳で音楽院の特別生となった。しかし―」教授の声が震えた。「周囲の期待があまりにも重すぎた。完璧な演奏を求められ続け、少しのミスも許されない毎日。ついに十歳の時、本番の演奏会で指が震えて弾けなくなってしまった」

 健太郎の姿が急に激しく揺らめいた。彼の口から再び叫び声が漏れ、今度ははっきりとした言葉が聞き取れた。

「弾けない……弾けない……みんなが見てる……お父さんが怒ってる……弾けないよ……」

 樹里の胸が締め付けられた。その声は、プレッシャーに押し潰された子供の純粋な苦しみに満ちていた。

「演奏会の後、健太郎は練習室に籠もり、一日中ピアノを弾き続けるようになった。食事も睡眠も取らずに」教授が続けた。「そして三日後、練習室で息絶えているのが発見された。指は血だらけになるまで鍵盤を叩き続けていたという」

 健太郎の霊が突然、樹里に向かって歩き始めた。その足音は不自然に重く、一歩ごとに練習室の温度が下がっていく。

「うまく弾いて……うまく弾いてよ……僕の代わりに……完璧に……完璧に弾いて……」

 健太郎の声は次第に狂気を帯びていく。彼の瞳が樹里を捉えた時、樹里は息が詰まるような圧迫感を覚えた。

「樹里、逃げるんだ!」修平の声が聞こえたが、樹里は動けなかった。健太郎の眼差しの中に、自分と同じものを見つけたからだ。

 音楽への愛。そして、それと同じ分だけ存在する恐怖。完璧でなければならないというプレッシャー。周囲の期待に応えなければならないという重圧。

「健太郎くん」樹里は震え声で呼びかけた。「私にも分かる。その苦しみ」

 健太郎の動きが止まった。彼の瞳に、かすかな戸惑いが浮かぶ。

「君も……苦しいの?」

「ええ」樹里は涙を拭いながら頷いた。「私も完璧に弾けない時がある。指が震えて、頭が真っ白になって、みんなががっかりした顔をするのが怖くて」

 健太郎の表情が和らいだ。狂気の渦が少しずつ静まっていく。

「でも健太郎くん、音楽はね」樹里はピアノの前に座り、優しく鍵盤に触れた。「完璧である必要はないの。大切なのは、心を込めて弾くこと」

 樹里が弾き始めたのは、子守歌だった。シンプルで温かな旋律が、練習室の冷たい空気を包み込んでいく。

「僕は……僕は間違えちゃいけないって言われて……」健太郎の声が小さくなった。「お父さんに愛してもらうために……みんなに褒めてもらうために……」

「愛されるために音楽をするの?」樹里は演奏を続けながら尋ねた。「それとも、音楽が好きだから弾くの?」

 健太郎は答えられずにいた。あまりにも幼くして重圧を背負い、本当の気持ちを見失ってしまったのだ。

「私はね」樹里の指が優しい旋律を紡いでいく。「音楽が好きだから弾くの。上手に弾けなくても、間違えても、この音が好きなの」

 子守歌の旋律に、健太郎の心が少しずつ溶けていく。彼の周りを取り巻いていた狂気の霧が薄れ、本来の少年らしい表情が戻ってきた。

「音楽って……楽しいものだったっけ?」

「そうよ。とても楽しいものよ」

 樹里は健太郎に微笑みかけた。その瞬間、練習室に温かな光が差し込んだ。健太郎の姿が次第に透明になっていく。

「ありがとう……お姉ちゃん」健太郎の声は、もう狂気を含んでいなかった。「僕、やっと思い出した。最初にピアノを弾いた時、すごく嬉しかったんだ」

 健太郎の霊が光の粒子となって消えていく。最後に、彼の安らかな笑顔が樹里の心に刻まれた。

 練習室に静寂が戻った。しかし、それは恐ろしい静寂ではなく、平和な静けさだった。

「よくやった、樹里」エドワードが安堵の表情を浮かべた。「君の慈愛の心が、あの子を救った」

 しかし、雅楽院静香の表情は依然として緊張していた。

「まだ終わりではありません。健太郎の浄化により、封印されていた最も古い霊が目覚めようとしています」

 その時、練習室の奥から、これまでとは比べ物にならないほど強大な存在感が立ち上がった。真の最終試練が、今始まろうとしていた。

夜想曲と紡がれた亡霊

39

少年霊との対峙

月村 奏子

2026-04-28

前の話
第39話 少年霊との対峙 - 夜想曲と紡がれた亡霊 | 福神漬出版