光に包まれた三つの魂が完全に消え去った瞬間、樹里の膝から力が抜けた。地下室の冷たい石床に倒れ込むと、今まで感じたことのない激しい疲労感が全身を襲った。
「樹里!」
修平の声が遠くで響く。意識が朦朧とする中、彼の温かい手が樹里の額に触れるのを感じた。
「熱い...こんなに熱があるなんて」
佐々木教授の顔も心配そうに覗き込んでいる。樹里は口を開こうとしたが、言葉が出てこない。体の奥底から生命力が抜け落ちていくような感覚に襲われていた。
「急いで保健室に運ぼう」
修平が樹里を抱き上げると、彼女の体は羽毛のように軽くなっていた。教授は深刻な表情で首を振る。
「いや、これは普通の病気ではない。霊たちを救済する際に、樹里さんは自分の生命力の一部を分け与えたのだろう。特に健一の魂は深い絶望に支配されていた。それを浄化するには、相当な代償が必要だったはずだ」
修平の腕の中で、樹里の息が浅くなっていく。彼は教授の言葉を理解しながらも、現実を受け入れることができずにいた。
「何とかする方法はないのですか」
「今は彼女の生命力が回復するのを待つしかない。だが...」
教授は言いかけて口を閉ざした。その表情に、修平は恐怖を覚える。
樹里は自分の部屋のベッドに運ばれ、修平と友人たちによる看病が始まった。ピアノ科の仲間である美咲と由香も駆けつけ、交代で樹里の側に付き添った。
「樹里ちゃん、聞こえる?私よ、美咲よ」
美咲が濡らしたタオルで樹里の額を拭きながら話しかける。しかし樹里の瞼は重く閉じられたままで、時折苦しそうな呻き声を漏らすだけだった。
三日目の夜、修平は椅子に座ったまま樹里を見つめていた。彼女の頬は病的に痩せこけ、唇は青白く乾いている。呼吸も不規則で、時々長い間息が止まることもあった。
「樹里...」
修平は彼女の手を握りしめる。その手は氷のように冷たかった。
「君がいない世界なんて考えられない。お願いだから、戻ってきてくれ」
部屋の隅では由香が静かにすすり泣いていた。美咲も涙を堪えながら、樹里の好きだったハーブティーを淹れ直している。
「私たち、樹里ちゃんがどれだけ大変な思いをしていたのか、全然分かってなかった」
由香の言葉に、修平は頷く。樹里は霊たちと向き合う中で、一人でどれほどの重荷を背負っていたのだろう。彼らにとって樹里は明るくて優しい友人だったが、その笑顔の裏にこれほどの覚悟と犠牲があったとは想像もしていなかった。
四日目の朝、樹里の容態がさらに悪化した。呼吸が浅くなり、脈も弱々しくなる。修平は教授に連絡を取った。
「もう限界かもしれません。病院に連れて行くべきでしょうか」
電話の向こうで教授は長い沈黙の後、重々しく答えた。
「病院では彼女を救えない。これは魂の問題だからな。しかし...一つだけ方法があるかもしれない」
「何でも試します。教えてください」
「君たちの想いだ。樹里さんを愛する者たちの強い想いが、彼女を現世に引き戻す力になるかもしれない。音楽でもいい、言葉でもいい。彼女の魂に届くものを送り続けるんだ」
修平は友人たちにそのことを伝えた。三人は迷わず頷き、樹里のために出来ることを始めた。
修平は樹里の枕元に小さなキーボードを持ち込み、彼女が好きだった曲を静かに演奏した。ショパンのノクターン、シューベルトの即興曲、そして二人が子供の頃によく連弾した思い出の曲。
美咲と由香は樹里との思い出を語りかけた。音楽大学での出会い、一緒に練習した日々、将来への夢を語り合った夜のこと。
「樹里ちゃん、覚えてる?去年の学園祭で、私たち三人でトリオを組んだでしょう。あの時、樹里ちゃんが『音楽って、人と人を繋ぐ魔法みたい』って言ったのよ。その魔法で、今度は私たちと樹里ちゃんを繋いで」
由香の声は涙で震えていたが、樹里に届くことを信じて話し続けた。
五日目の夜中、樹里の呼吸が一時停止した。修平が慌てて人工呼吸を試みていると、部屋の温度が急に下がった。そして、かすかに香の匂いが漂う。
「静香さん...」
修平が振り返ると、ぼんやりとした女性の影が見えた。雅楽院静香の霊が、最後の力を振り絞って現れたのだ。
「彼女は...多くの魂を...救ってくれました。私も...恩返しを...」
静香の霊は樹里の額に手をかざした。淡い光が樹里の体を包み、彼女の顔に微かに血色が戻る。
「私たちが与えられるのは...ほんの少しの時間だけ。あとは...あなたたちの愛が...彼女を支えるのです」
そう言い残して、静香の霊は完全に消えた。しかし樹里の呼吸は安定し、脈も強さを取り戻していた。
修平は樹里の手を握り直し、涙声で囁いた。
「樹里、君は一人じゃない。僕たちがいる。だから諦めないで。一緒に音楽をやろう。まだ君と演奏したい曲がたくさんあるんだ」
その時、樹里の瞼がかすかに震えた。そして小さく、とても小さく、彼女の唇が動いた。
「しゅう...へい...」
か細い声だったが、確かに修平の名前を呼んだのだ。修平は樹里の手を両手で包み込み、安堵の涙を流した。美咲と由香も駆け寄り、三人で樹里を見守った。
朝日が部屋に差し込む頃、樹里はゆっくりと瞳を開いた。焦点の定まらない目で周りを見回すと、心配そうな三人の顔があった。
「みんな...どうして...」
声は掠れていたが、意識ははっきりしていた。修平は安堵のあまり言葉が出ない。
「樹里ちゃん!よかった、本当によかった!」
美咲が泣きながら樹里の手を握る。由香も涙を流しながら微笑んでいた。
樹里は朦朧とした意識の中で、自分がどれほど深い愛に支えられているかを実感していた。霊たちを救うために支払った代償は大きかったが、それ以上に大切なものを得たような気がした。
しかし、教授の警告した「最深部に潜む存在」のことを思い出し、樹里の表情が曇る。まだ全てが終わったわけではない。最も危険な戦いが残されているのだ。