朝の光が練習室の古い窓を通して差し込み、床に細かな光の粒子を踊らせている。樹里は譜面台の上にエドワードから託された楽譜を広げながら、その光景を静かに眺めていた。

 あれから一週間が過ぎていた。病院での検査結果は良好で、医師からは完全な回復のお墨付きをもらっている。けれど樹里にとって本当の回復とは、体の傷が癒えることではなく、音楽に対する新しい理解を得ることだった。

「おはよう、樹里」

 ドアが開いて修平が顔を覗かせる。彼の表情には以前のような心配の色はなく、代わりに穏やかな安心感が漂っていた。

「おはよう、修平くん。早いのね」

「君こそ。最近、朝練習が日課になってるって聞いたよ」

 修平は樹里の隣に腰を下ろし、譜面台の楽譜に目を向けた。そこに書かれているのは、エドワードが残した未完成のノクターンと、樹里が少しずつ書き足している新しいフレーズだった。

「これ、随分進んだね」修平は感心したように呟く。「君の書く音楽が、前とは違うような気がする」

「そうかな」樹里は鍵盤に指を置きながら微笑んだ。「でも確かに、何かが変わった気はするの」

 彼女は静かに弾き始める。エドワードのメロディーラインに、樹里自身の想いを込めた和声が重なっていく。それは完璧を求めるエドワードの情熱と、静香の優雅な詩情、そしてトーマスの純粋な喜びが溶け合った、新しい音楽だった。

「美しいな」修平が小さくつぶやく。「前の君の演奏も素晴らしかったけれど、今はもっと深いものを感じる」

 樹里の指が鍵盤の上で踊るように動く。彼女の心の中には、あの夜霊たちと共に過ごした時間の記憶が鮮やかに蘇っていた。エドワードの厳格な指導、静香の温かな励まし、トーマスの無邪気な笑顔。そして最後に彼らが教えてくれた、音楽の本当の意味。

 曲が終わると、練習室は静寂に包まれた。修平は感動したように息を深く吸い込む。

「樹里、君は本当に変わったよ。音楽に対する向き合い方が、前とは全然違う」

「霊たちから教わったの」樹里は振り返って修平を見つめる。「音楽は競争でも、自分を証明する手段でもない。ただ美しいものを美しいと感じ、それを人と分かち合いたいという気持ちから生まれるものなのだって」

 修平は静かに頷いた。事件の詳細について、樹里は多くを語らなかったが、彼女が何か深い体験をしたことは理解していた。

「それで、この曲はいつ完成予定なんだ?」

「まだ分からない。でも急ぐ必要はないと思うの。エドワードは長い間この曲を完成させることができなかった。それは彼が完璧を求めすぎていたからかもしれない。でも私は違うアプローチで取り組んでみたいの」

 樹里は楽譜に目を落とす。そこにはエドワードの情熱的なメロディーと、樹里が書き足した優しい和声が混在していた。

「完璧である必要はない。ただ真実であればいい。それが彼らから学んだことよ」

 その時、練習室のドアが再び開いた。佐々木教授が穏やかな表情で入ってくる。

「おはよう、桜井さん、田中くん。朝から熱心ですね」

「教授、おはようございます」樹里と修平は立ち上がって挨拶する。

 佐々木教授は樹里の譜面台を見て、興味深そうに目を細めた。

「これは...なかなか興味深い楽譜ですね。19世紀の様式と現代的な和声感覚が見事に融合している」

「ありがとうございます。まだ未完成ですが」

「音楽に完成などあるのでしょうか」教授は優しく微笑む。「どんな名曲も、演奏される度に新しい命を吹き込まれ、常に生まれ変わっているのです。桜井さんの音楽も、きっとこれから多くの人の心に響き、様々な形で生き続けることでしょう」

 樹里の胸に温かいものが広がった。教授の言葉は、エドワードたちから学んだ教えと重なり合っていた。

「教授、一つお聞きしたいことがあります」樹里は少し躊躇してから口を開いた。「この学校で、音楽に人生を捧げた人たちの想いは、今でも生き続けているのでしょうか」

 佐々木教授は深く頷く。

「もちろんです。この建物の壁には、数え切れないほどの音楽への愛が染み付いている。それは決して消えることはありません。そして時には、その愛を理解できる心の持ち主に、何かを伝えようとすることもあるのでしょう」

 教授の言葉に、樹里は深い安らぎを覚えた。霊たちとの体験は決して幻想ではなく、この場所に刻まれた真実の一部だったのだ。

「さて、桜井さん」教授は手に持っていた書類を樹里に差し出した。「来月の学内コンサートの件ですが、あなたに特別枠で出演していただきたいのです。体調のことを考慮して無理は禁物ですが、いかがでしょうか」

 樹里は書類を受け取りながら、しばらく考え込んだ。以前の彼女なら、こうした機会に緊張と不安を感じていただろう。でも今は違った。

「はい、ぜひ参加させていただきます」樹里ははっきりと答えた。「この曲を、皆さんに聞いていただけるくらいまで仕上げてみたいと思います」

「素晴らしい。楽しみにしています」

 教授が去った後、樹里は再びピアノに向かった。今度は修平も隣に座り、時折アドバイスを交えながら樹里の演奏に耳を傾けた。

 陽光が徐々に高くなり、練習室全体を明るく照らしていく。樹里の指が紡ぐメロディーは、もはや亡霊たちの想いだけでなく、彼女自身の新しい音楽観が込められていた。それは完璧ではないかもしれないが、確実に人の心を動かす力を持っていた。

 曲の途中で、樹里は演奏を止めて振り返った。

「修平くん、ありがとう」

「何が?」

「ずっと支えてくれて。一人だったら、きっとここまで来られなかった」

 修平は照れたように頭を掻く。

「当たり前だろう。僕たちは幼馴染なんだから」

 樹里は微笑みながら再び鍵盤に向かう。彼女の心の中で、エドワードたちの最後の言葉が静かに響いていた。

 『音楽は愛なのです。それを忘れないでください』

 その愛を胸に、樹里は新しい音楽を創造し続けていく。霊たちから受け継いだ想いと、彼女自身の感性を融合させながら。

 練習室の外では、新学期が始まろうとしている喧騒が聞こえてくる。学生たちの笑い声、楽器を運ぶ音、そして様々な楽器から漏れ聞こえる音楽の断片。

 樹里にとって、全てが新しく聞こえていた。そしてその全てが、これから紡がれる新たな物語の序章のように思えるのだった。

夜想曲と紡がれた亡霊

48

新たな始まり

月村 奏子

2026-05-07

前の話
第48話 新たな始まり - 夜想曲と紡がれた亡霊 | 福神漬出版