金木犀の甘い香りが校庭に漂う十月初旬の土曜日、美月は早朝から図書室に向かった。今日はついに、千鶴たちの想いを受け継いだ学習支援活動「桜学舎」の第一回目が開催される日だった。
図書室の扉を開けると、すでに健人と田村先生が机や椅子の配置を整えているところだった。いつもより明るい陽射しが差し込む室内に、子どもたちを迎える準備が着々と進められている。
「おはよう、美月。今日はいよいよだね」
健人が振り返って笑顔を向ける。その表情には、美月と同じような緊張と期待が混じっていた。
「おはようございます。すみません、遅くなって」
「いえいえ、時間通りよ。さあ、一緒に準備を進めましょう」
田村先生の穏やかな声に励まされ、美月も配置作業に加わった。参加予定は小学三年生から六年生まで八名。それぞれの学習レベルに合わせた教材も、前日までに丁寧に準備してきた。
九時半になると、保護者に連れられた子どもたちが次々と図書室を訪れた。最初に来たのは、小学四年生の田所れんちゃんだった。おかっぱ頭の愛らしい女の子で、少し緊張した様子で美月を見上げている。
「れんちゃん、こんにちは。今日はよろしくおね」
「よろしくお願いします」
小さな声で挨拶するれんちゃんの後に続いて、元気いっぱいの男の子たちや、読書好きそうな女の子たちが集まってきた。みんなそれぞれに個性的で、美月の心は自然と温かくなった。
「それでは、みんな集まったところで始めましょうか」
田村先生の合図で、第一回桜学舎がスタートした。美月は胸の奥で、千鶴と春香に向けて心の中で語りかけた。
——見ていてください。あなたたちの夢を、今日から少しずつ形にしていきます。
最初は簡単な自己紹介から始まった。子どもたちはそれぞれ好きな教科や将来の夢を話してくれる。医者になりたい子、絵本作家になりたい子、サッカー選手になりたい子。キラキラと輝く瞳で語る姿に、美月は明治時代の女学生たちが抱いていた学びへの憧憬を重ね合わせていた。
「それでは、今日はまず宿題のわからないところから一緒に見てみましょう」
美月の提案に子どもたちは素直に応じ、それぞれが持参した宿題を机の上に広げた。算数の文章題に苦戦する子、漢字の書き取りで筆順がわからない子、理科の実験結果をまとめるのに困っている子——みんな違う課題を抱えている。
「れんちゃん、この算数の問題、どこがわからないかな?」
美月がそっと寄り添うと、れんちゃんは遠慮がちに問題を指差した。
「この、『太郎くんは りんごを三個持っていて、次郎くんから二個もらいました』っていうところまではわかるんですけど……」
「うん、いいね。それで?」
「その後に、『太郎くんは妹に半分をあげました』って書いてあって、半分って何個なのかわからないんです」
美月は千鶴だったらどんな風に教えるだろうと考えた。きっと子どもの目線に立って、わかりやすく、でも考える力を育てるように導いてくれるはず。
「じゃあ、一緒に考えてみよう。まず太郎くんは最初に何個りんごを持ってた?」
「三個です」
「そうね。それから次郎くんから二個もらったから……」
「五個!」
「そう、五個になったね。その五個の半分ということは、五個を二つに分けるといくつになる?」
れんちゃんは指を使いながら一生懸命考えている。美月は急かすことなく、じっと待った。
「あ、二個と……三個?」
「そうね。でも半分って言うときは、できるだけ同じ数になるように分けたいの。五個だと、ぴったり半分にはならないけれど……」
「あ! 二個と二個で、一個余る!」
「その通り。だから太郎くんが妹にあげたのは二個か三個ということになるね。問題によっては『約半分』って意味のこともあるの」
れんちゃんの顔がぱっと明るくなった。その瞬間、美月の心の中に温かい充実感が広がった。これが教えることの喜びなのかもしれない。千鶴が夢見ていた瞬間が、今まさに目の前で起こっている。
一方で健人は、理科の実験に興味を示している六年生の男の子と熱心に話し込んでいた。
「君は実験が好きなんだね。この結果をまとめるコツがあるんだよ」
「本当ですか?」
「うん。まず『何をしたか』『何が起こったか』『なぜそうなったと思うか』の三つに分けて考えてみるといいんだ」
健人の説明を聞きながら、美月は彼の教え方の上手さに感心していた。郷土史研究部での活動を通じて培った説明能力が、こんなところでも活かされているのだろう。
午前中の二時間があっという間に過ぎて、休憩時間になった。子どもたちは持参した水筒でお茶を飲みながら、リラックスした様子で雑談を始めた。
「お姉ちゃん、この学校の生徒なの?」
小学五年生の女の子が美月に尋ねた。
「そうよ。高校二年生なの」
「すごーい。この学校、とっても古いんでしょう?」
「ええ、明治時代からあるのよ。実は昔、ここで勉強していた女学生さんたちがいて、その人たちも子どもたちに勉強を教えてあげたいって思っていたの」
「へえ、そうなんだ。じゃあ、今日のこれって、その人たちの夢が叶ったってこと?」
子どもの純粋な言葉に、美月は胸が熱くなった。
「そうかもしれないね。きっと、その人たちも喜んでくれていると思う」
休憩が終わると、後半は読書の時間にした。図書室という環境を活かして、子どもたちに好きな本を選んでもらい、わからない漢字があったら一緒に調べることにした。
れんちゃんは『赤毛のアン』の子ども向け版を選んで、夢中になって読んでいる。時々「この漢字、何て読むんですか?」と美月に尋ねる姿は、学ぶことの楽しさを純粋に体現していた。
「『想像』って書いて『そうぞう』って読むのね。アンみたいに想像力豊かになりたいな」
「想像するって素敵なことよね。れんちゃんも、本を読んでいる時はアンの世界を想像しているでしょう?」
「はい! アンのお部屋とか、グリーン・ゲイブルズのお庭とか、頭の中でどんどん浮かんでくるんです」
その時、美月の心の奥に懐かしい声が響いた気がした。千鶴の声だった。
——美月さん、ありがとう。子どもたちの学びたいという気持ちに寄り添うこと、これが私の夢だったの。
美月は静かに微笑んだ。千鶴の想いが、確実に現代に受け継がれている実感があった。
十一時半になり、初回の桜学舎は終了時間を迎えた。子どもたちは「もう終わり?」「来週もやるの?」と名残惜しそうにしている。
「また来週の土曜日に会いましょうね。今日宿題が終わらなかった人も、また一緒にやりましょう」
美月の言葉に、子どもたちは嬉しそうに頷いた。保護者の方々も迎えに来て、感謝の言葉をかけてくださった。
「うちの子、帰り道でずっと『楽しかった』って言ってるんです。ありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございました」
最後の子どもたちを見送った後、美月と健人、田村先生は図書室で振り返りの時間を持った。
「初回としては上々の出来だったと思うわ。子どもたちも楽しそうだったし、何より美月さんが生き生きしていた」
田村先生の言葉に、美月は頬を染めた。
「私、すごく楽しかったです。子どもたちが『わかった!』って言ってくれる瞬間が、こんなに嬉しいものだとは思いませんでした」
「それが教育の醍醐味よ。千鶴さんも、きっと同じ気持ちだったでしょうね」
健人も満足げに頷いた。
「みんなそれぞれ個性があって面白かったな。来週はもう少し準備を工夫してみよう」
片付けを終えて校舎を出る時、美月は例の桜の木の前で立ち止まった。葉が色づき始めた枝に向かって、心の中で語りかける。
——千鶴さん、春香さん、今日は本当にありがとうございました。あなたたちの想いが、確実に子どもたちに届いています。
秋風が桜の枝を揺らし、まるで返事をするように葉がさらさらと音を立てた。美月は温かい満足感に包まれながら帰路についた。
しかし、校門を出たところで、見知らぬ年配の女性が美月を見つめていることに気がついた。その人は何かを言いたげな表情で、美月の方へと歩いてきた。