夏休みが始まってから一週間。蝉の声が響く校庭で、美月は桜の木の前に立っていた。青々と茂った葉が陽射しを遮り、木陰を作っている。けれど、もうあの不思議な力は感じられなかった。
「千鶴さん、春香さん」
美月は木の幹に手を当てて、小さく呼びかけた。しかし返ってくるのは蝉の鳴き声だけ。桜の季節が終わり、二人の姿が見えなくなってから一ヶ月が過ぎていた。
「やっぱり、駄目ね」
諦めかけたとき、校舎の方から足音が聞こえてきた。振り返ると、健人が汗を拭いながら歩いてくる。
「お疲れ様。今日の学習支援はどうだった?」
「うん、みんな一生懸命だったよ」
美月は努めて明るく答えた。夏休みに入ってから、美月と健人は毎日のように小学生を対象とした学習支援活動を行っていた。図書館や公民館を借りて、勉強の遅れがちな子どもたちに無料で教える取り組みだった。
「君の教え方、本当に上手だね。小学生たちも懐いているし」健人は感心したように言った。「算数が嫌いだった田村君も、今日は積極的に手を挙げていたよ」
「そう?嬉しいな」
美月は微笑んだが、その表情には陰りがあった。確かに子どもたちとの時間は充実していた。教えることの喜びも感じていた。けれど、何かが足りない気がしてならなかった。
千鶴さんと春香さんがいてくれたら、もっと良いアドバイスをもらえるのに。そんな思いが頭をよぎる。
「美月?」
健人の心配そうな声に、美月ははっと我に返った。
「ごめん、ちょっとぼんやりしてた」
「最近、元気がないように見えるけど、大丈夫?」
健人の優しい問いかけに、美月は迷った。千鶴さんと春香さんのことを話そうか。でも、もう二人に会えないということを口にするのが辛かった。
「大丈夫よ。ただ、夏バテかも」
「そうか。無理しないでよ」
健人は納得していないようだったが、それ以上は追及しなかった。
翌日も、その次の日も、美月は学習支援活動に参加した。子どもたちの笑顔を見ていると、心が温かくなる。でも、一人になると寂しさが押し寄せてきた。
特に桜の木の前に立つときがそうだった。以前は千鶴さんと春香さんの声が聞こえてきた場所で、今は一人きり。風に揺れる葉音だけが響いている。
「私、一人でやっていけるのかな」
美月はつぶやいた。千鶴さんと春香さんから託された想い。それを現代で実現するという決意。頭では分かっているつもりだった。でも、実際にやってみると、自分の未熟さを思い知らされる。
教え方が分からなくて戸惑うこともある。子どもたちのやる気を引き出せずに悩むこともある。そんなとき、千鶴さんならどうするだろう、春香さんならどんな風に接するだろうと考える。けれど、もう聞くことはできない。
「美月ちゃん、今日はありがとう!」
小学三年生の女の子が元気よく手を振って帰っていく。その子は算数が苦手で、最初は泣いてばかりいた。でも今日、ついに分数の計算ができるようになった。
「また明日ね」
美月は笑顔で手を振り返した。子どもたちが成長していく姿を見ていると、やりがいを感じる。でも同時に、責任の重さも感じていた。
その日の夜、美月は自分の部屋で日記を書いた。学習支援を始めてからの毎日の記録。子どもたちの様子や、自分が感じたこと。千鶴さんと春香さんへの報告のつもりで書き続けていた。
「今日は田村君が笑顔を見せてくれました。千鶴さんが言っていた通り、一人一人に合った教え方があるんですね。でも、まだまだ分からないことばかりです。お二人がいてくれたら、もっと上手にできるのに」
ペンを置いて、美月は天井を見上げた。千鶴さんと春香さんは、どこにいるのだろう。もう完全に消えてしまったのだろうか。それとも、どこかで見守ってくれているのだろうか。
翌朝、美月はいつものように桜の木の前を通った。もう期待はしていなかったが、それでも足は自然とそちらに向かう。
ところが、木の前で立ち止まったとき、かすかに風が変わったような気がした。ほんの一瞬、懐かしい香りがしたような。
「千鶴さん?」
美月は慌てて木に近づいた。しかし、やはり何も聞こえない。見えない。きっと気のせいだったのだろう。
それでも、美月は諦めなかった。毎朝、木の前で二人に報告することを続けた。聞こえているかどうかは分からないけれど、話しかけることで心が落ち着いた。
「昨日は新しい子が来ました。とても人見知りで、最初は隅の方に座ってばかりいたんです。でも、絵を描くのが好きだと分かって、算数の問題も絵で説明したら理解してくれました」
夏休みも後半に差し掛かった頃、学習支援に参加する子どもたちの数が増えていた。口コミで評判が広がったらしい。
「美月、君のおかげだよ」健人は嬉しそうに言った。「最初は僕一人でやっていたけど、こんなに多くの子が集まったのは初めてだ」
「私一人の力じゃないよ。健人君がいてくれるから」
「でも、君の教え方には特別な何かがある。子どもたちが君を慕っているのを見れば分かる」
健人の言葉に、美月は複雑な思いを抱いた。確かに子どもたちは懐いてくれている。でも、それは自分の力だけではない。千鶴さんと春香さんから教わったことが活かされているのだ。
その日の午後、美月は一人で図書館にいた。教育関係の本を読んで、指導法を学んでいる。千鶴さんのように、もっと上手に教えられるようになりたかった。
本を読んでいると、ふと視線を感じた。顔を上げると、窓の向こうに桜の木が見えた。青い空を背景に、緑の葉が風に揺れている。
その瞬間、美月の胸に温かいものが広がった。まるで誰かに見守られているような、そんな感覚。きっと気のせいなのだろうけれど、一人ではないような気がした。
「千鶴さん、春香さん、私、頑張っています」
小さくつぶやいて、美月は再び本に向かった。たとえ一人になっても、二人から託された想いを胸に歩き続けよう。そう心に決めて。
夏の終わりが近づいていた。蝉の声も少しずつ小さくなり、夕暮れが早く訪れるようになった。美月の中にも、新たな決意が芽生えていた。
一人でも、やり遂げてみせる。千鶴さんと春香さんの想いを、必ず現代に花開かせる。
でも、心の奥底では、もう一度だけでも二人に会いたいと願っていた。