灯篭が、流れている。
川ではない。空だ。
灯京の夜空には、いつもそれがある。六角形の薄い筐体に橙色の光を宿した「灯篭型データ端末」——通称ロウソク——が、高層ビルの谷間を縫うように、ゆっくりと漂っている。風に従うのではなく、それぞれが微細な推進機を持ち、決められた経路を巡回している。だが人間の目には、まるで本物の灯篭が川を流れるように映る。そう設計されているのだ。この街のすべてがそうであるように。
瀬戸夜依は、窓枠に頬杖をついて、その光の群れを見ていた。
四階建てのビルの三階。「瀬戸法律事務所」と掘られた小さな看板が、外壁に打ち付けられたまま錆びている。事務所というより物置に近い空間に、書類の山と使い古された椅子と、それから夜依だけがいた。スタッフはいない。依頼人もいない。正確には、依頼人が来なくなって、もう三年になる。
ロウソクの一基が、窓のそばをゆっくりと過ぎた。六角形の面に、今夜の記憶市場の相場が表示されている。
〈幼少期・情動系 買取価格:上昇中〉
夜依は目を細めた。
記憶は、売れる。
それがこの街の根幹だった。灯京では、人の記憶を光学情報として抽出し、圧縮し、ロウソクのネットワークへ送信する技術が二十年前に確立された。当初は医療目的だったはずのその技術は、あっという間に司法の世界を塗り替えた。記憶は証拠になった。弁護士や検察官は法廷でホログラムを展開し、当事者の記憶映像を陪審員の眼前に映し出す。目撃者の証言よりも、被疑者自身の記憶映像よりも、確かな証拠はないとされた。
人々はそれを「灯火証拠」と呼んだ。
そして当然のように、改竄業者が生まれた。
夜依はゆっくりと窓から離れ、デスクに戻った。引き出しの中から煙草を取り出す。火をつけようとして、やめた。事務所の賃貸契約書に禁煙と書かれていたことを思い出したからではない。三年前から吸っていないのに、今夜に限って手が引き出しへ向かったことが、自分でも少し可笑しかった。
壁に、古い判決文のコピーが貼ってある。
〈被告人・瀬戸夜依に対する弁護士資格停止処分について〉
夜依は読まなかった。三年間、毎晩この壁を見ているから、もう目をやらなくても全文を諳んじることができる。
「……証拠の記憶映像に対し、被告人が不正に関与した疑義が認められ」
口から言葉が漏れ出て、夜依は舌打ちした。やめろ、と自分に言い聞かせる。喋るな。思い出すな。
だが夜の静けさは、記憶に親切だった。
三年前の法廷が、瞼の裏に広がる。白い光。展開されたホログラムの映像。夜依の依頼人——記憶改竄で身に覚えのない殺人を着せられた四十代の男——の記憶が、検察側の言い分と食い違っていた。夜依はそれを追及した。矛盾を指摘した。証拠の記憶映像に縫い目があることを——光の不自然な繋ぎ目を——見つけ出し、法廷で声を上げた。
その翌日、夜依自身の記憶が「改竄されている」と告発された。
夜依が証拠の記憶映像に細工を施した、という映像が提出された。夜依の手が、夜依の表情が、夜依の声が、そこにあった。見事なほど自然で、夜依自身が一瞬、自分がやったのだろうかと疑うほどだった。
弁護士資格は停止された。依頼人は有罪になった。
夜依の無敗記録は、そこで終わった。
煙草を引き出しに戻す。代わりに、冷めたコーヒーのカップを持ち上げた。
勝訴件数、百二十二。敗訴、ゼロ。
それが冤罪によって汚れた。汚されたのではなく、汚れた、という感覚が正確だと、夜依は思っている。なぜなら夜依自身が、もはや自分の記憶を完全には信じられないからだ。あの法廷で提出された映像が本当に改竄だったと、どうやって証明できる。あの「縫い目」が本物の瑕疵だったと、何を根拠に断言できる。
記憶は、信じられない。
自分の記憶でさえも。
窓の外で、ロウソクの群れが緩やかに動いている。橙色の光が、川面のように揺れている。灯京の中心を流れる「灯川」には、本物の水が流れており、夜になるとロウソクの光が水面に映って揺れる。それを見に来る観光客もいる。幻想的な景観だ、と彼らは言う。
夜依には、蜘蛛の巣に見える。
光の糸が絡み合い、人々を捕まえ、逃がさない。記憶を売った者、買った者、改竄した者、改竄された者、されたことに気づいていない者。この街のすべての住人が、どこかで光の網に引っかかっている。
金属音がした。
ドアではなく、窓の外からだ。
夜依は立ち上がり、窓に近づいた。三階の窓の下、非常階段の踊り場に何かが落ちている。ロウソクが一基、通常航路を外れて建物に接触したのか、あるいは——
もう一度音がした。今度は明らかに人間の立てる音だった。
夜依は窓を開けた。夜風が滑り込んでくる。橙色の光の中に、非常階段の踊り場がある。そこに、丸まった人影があった。
小さい。
膝を抱えて、鉄製の手すりにもたれかかっている。若い——いや、子供に近い。
「おい」
夜依は声をかけた。人影が顔を上げた。
少女だった。二十歳前後だろうか。薄い着衣で、髪が乱れ、頬に擦り傷がある。だがそれよりも夜依の目を引いたのは、その瞳だった。橙色の光を受けて、何か懸命に探しているような、何かを失ったような、奇妙な透明さを持った目だった。
「あの」と少女が言った。声は思ったより落ち着いていた。「ここ、法律事務所ですか」
「看板が見えたか」
「はい。錆びてましたけど」
「廃業はしていない」
「よかった」少女は立ち上がろうとして、足がもつれ、手すりを掴んだ。「あの、聞いてもいいですか。わたし、名前がわかりません」
夜依は少女を見た。
「……名前が」
「はい。どこから来たかも、何をしていたかも。ぜんぶ、わかりません」
風が吹いた。ロウソクの群れが揺れた。橙色の光が、少女の顔に揺らぐ。
「記憶がない、ということか」
「そうみたいです」少女は少し困ったように眉を寄せ、それからなぜか微かに笑った。「でも不思議と、怖くないんですよね。なんでかな」
夜依は窓枠に手をついたまま、少女を見つめていた。
壁の判決文が、視野の端でちらついた。
〈被告人・瀬戸夜依に対する——〉
夜依は判決文から目をそらし、少女を見た。記憶を持たない少女が、記憶が証拠になる街の夜に、廃れた弁護士事務所の非常階段に現れた。
偶然、とは思いにくかった。
だがそれ以上に夜依が気になったのは、別のことだった。少女の微笑みに、奇妙な既視感があった。どこかで見たことがある、という類の感覚ではなく——もっと深いところで、何かが引っかかっている。
「上がれ」と夜依は言った。「外は寒い」
「いいんですか」
「依頼人かもしれない。話を聞く前に凍えられたら困る」
少女はもう一度、今度ははっきりと笑った。
その笑顔が灯篭の光に照らされた瞬間、「瀬戸法律事務所」の錆びた看板が同じ光を受けて、橙色に滲んだ。
三年ぶりに、夜依の胸の底で、何かが微かに動いた。
それが何なのか、夜依にはまだわからなかった。